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九 勢に馬乗れ(2)

(カテゴリ:楚漢の章

戦で勝つためには、「勢」に乗ることが肝要であった。

― 善く人を戦わしむるの勢い、円石を千尋の山に転ずるが如くなる者は、勢なり ―(兵勢篇)
この孫子兵法の言葉は、本義は戦場での用兵について語っているものであるが、もっと大局的な一連の作戦においても有効なはずだ。敵の諸侯を降し、自らの勢力圏を広め、外交で圧倒的優位に立つためには、一旦付いた「勢」をしっかりと大事に保って畳みかけなければならない。「勢」にうまく乗ることができれば、自らの力は数倍層にも増えることとなる。漢王は、いま「勢」が「勢」を呼び込む局面にあった。これには、乗らなければならない。乗れば、思わぬところから自分に福を持ち込んで来る者すら現れるものなのだ。 漢王は、曹参・灌嬰に命じて、東に兵を向けさせた。 漢と西楚との間には、殷王が挟まれていた。これを攻略して、いよいよ西楚の領土への道を開けるためであった。 ところが、漢軍が東に兵を進めたところ、殷王はあっけなく降伏してしまった。 あまりに手間要らずの勝利に漢王が不思議がっていたところに、魏無知(ぎむち)という者から東国の有為の人物を大王に推薦したいと、言上して来た。 漢王は、殷を収めて自ら修武にまで進んでいた。修武の陣営で、漢王は魏無知の推薦した者どもと会見することになった。 魏無知からは、七名ほどが漢王のもとに送られて来た。だが漢王は、その中の一人に一見して注目した。 漢王は、平伏する男に対して言った。 「お前は、、、確か、項王のところにいたのではないか?」 顔を上げた男は、陳平であった。 「ご指摘のとおりで、ございます。」 漢王は、聞いた。 「― 逃げて来たか?」 陳平は、答えた。 「― 逃げて参りました。」 大した器量の、男子であった。容姿整って、その上活気に満ち溢れている。第一印象だけで、この男がただものではないことを感じさせた。 漢王は、嬉しくなって陳平に近寄った。 「― 陳平。優遇してやろうか?」 漢王は、陳平にぐっと顔を近づけた。 陳平は、漢王と瞬時目を合わせて、それから目を伏せて答えた。 「よろしく、お願いいたします。」 漢王は、わはははと大笑して、陳平の肩をばんばんと叩いた。 陳平は、心中軽くため息を付いた。 そのまま漢王は謁見した者どもと食事を取って、終わったら退席させようとした。 陳平は、あえて漢王に申し出た。 「大王!― 臣が参ったのは、大王のために用あってのことです。どうか本日のうちに、臣の意見をお伺いください。」 漢王は、許した。 「― ふむ。いいだろう。」 もし陳平が貧相な男であったならば、漢王は初見の日で二人だけで語る機会など与えなかったであろう。漢王は、骨ばかりの読書人や気色の悪い方士どもなどと夜に親しく語る趣味など、持っていない。陳平は、自分の容姿の使い道もまたよく知っていた。 一夜を語り明かして、漢王は陳平をすっかり気に入った。 漢王は、陳平に言った。 「お前が、殷王をたぶらかしたのであったか、、、ふん。ずいぶんな、小才子だ。」 意地悪い言い方であったが、顔は笑っていた。 陳平は、神妙な顔を作って、拝礼した。 翌朝になって、陳平は漢王と馬車に同乗することが許されていた。陳平が項王の下で都尉の官にあったことを聞いて、昨日付で早くも彼は漢でも同じ官職に任じられた。 漢王は、馬車の座席に大股で座って、横の陳平に話し掛けた。 「陳平、、、やりたい仕事は、何だ?」 陳平は、しばし考えて、言った。 「軍の監察に、当りたいと存じます。」 漢王は、意外な彼の望みに、不審がった。 「お前は、軍の指揮を得意としないと言う。そのお前が、軍の上に立って監察か?」 陳平は、悪びれずに答えた。 「だから、監察なのです。軍を知り将兵を愛しすぎては、監察などできません。」 漢王は、陳平の答えに大笑いして、許した。 夏候嬰は、今日も漢王の馬車を操っていた。 彼は、昨日拾った美男子にいきなり軍の監察を命じた王の気紛れに、顔をしかめていた。しかし、二人からは彼の表情は見えなかった。たとえ見えたとしても、二人とも無視していたであろう。 陳平は、漢王にささやいた。 「― 彭城を陥とすことに、大王はあまりこだわらない方がよいですよ。」 漢王は、彼の言葉を疑った。 「彭城は、項王の都ではないか。今項王は、斉に遠征している。都を陥とせば、奴は根無し草だ。陥とさない手が、あるものか?」 陳平は、答えた。 「彭城などは、すぐに陥とせるからです。これは、本当のことです。ですが彭城を陥としても、項王は生きています。最優先するべきは、項王の命を狩ることです。大王は、諸侯の軍を結集して、項王のいる斉に押し寄せたまえ。そうして、彼をがんじがらめに包囲する。項王の天才をもってしても、いつかは疲れて倒れるでしょう。それが一挙に天下を平定する道だと、臣は進言いたします。」 漢王は、陳平の言葉を聞いて、しばし考え込んだ。 それから、言った。 「だめだ。」 陳平は、聞いた。 「どうして?」 漢王は、言った。 「諸侯が、従わない。結局、奴ら項王と直接戦うのが、怖いのだ。まず、彭城を陥として圧倒的な勝利を味わわせなければ、項王と戦う気力を出さないだろう。」 それは、漢王の政治的な勘であった。陳平は、やむなく引き下がった。 後から考えてみれば、陳平はもっと漢王に命を賭けて進言するべきであった。だが、昨日やって来たばかりの陳平は命を賭ける危険を冒してまで、漢に尽す意志をまだ持てなかった。すでに東への進軍は作戦として半ばまで進んでいて、今さらねじ曲げるのは困難であった。漢と諸侯の軍は、併せて五十万を越えていた。その大軍が、彭城攻略に向けて大規模な動きを始めていたのであった。
          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章