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九 勢に馬乗れ(1)

(カテゴリ:楚漢の章

まず全土の諸侯に調略の手を回して、暴虐の王を丸裸にする。

諸侯の大半を手中に収めたところで、盟主となって諸侯を一同に集める。
幸いにも、暴虐の王は都から遠くに遠征している。今こそ、義兵を挙げるべし。諸侯は、盟主に強いて望む。暴虐の王を、天に代わって伐ち払ってください!
諸侯の強いての要請に押されて、盟主はやむなく義兵を挙げるだろう。いまや正義の旗を掲げて進む盟主の軍を、誰が押し留めることができようか?
これが、かつて周の武王が関中から東して殷の紂王を討伐した、殷周革命の経過であった。
そして、いま漢王は武王の道をそのままに取って、東に狙いを定めていた。現代の紂王、項王を討つために。
「、、、本当に勝てるんだろうな、阿哥(にいちゃん)?」
陣営で、漢王は大将軍の韓信に聞いた。
韓信は、答えた。
「勝てるかどうか、を問わないで下さい。勝たなければならないのです。いま、勝つための絶好の条件が揃っています。ここであえて進まなければ、勝つ機会は永久に去ってしまうかもしれません。人は、努力して勝つための条件を準備することができます。その準備が周到であれば、天はやがて必ず報いて勝つべき時を与えてくれます。勝つべき時が来れば、人は脇目もふらず勝つために全力を尽すしか、出来ることはないのです。勝負とは、全てかくのごとしです。」
漢王は、にやにやしながら韓信の言葉にうなずいた。
三月、漢王はいよいよ東への進路を取った。
臨晋から河水(黄河)を渡り、西魏王豹(ひょう)の領地を通って兵を進めた。西魏王は、兵を率いて漢王に馳せ参じた。これで、東に一歩。
漢王は、張耳を追い出して趙を乗っ取った陳餘にも、あえて漢と行動を共にするように要請した。陳餘は、漢に逃げ込んだ張耳の首を差し出せと言って来た。張耳の、予想した通りであった。
「この戦の間だけでも、従わせる手を打ちましょう。その間陳餘が動かないだけでも、我らの有利です。今の一戦を勝つためには、目先の小細工も致し方ありません。」
軍師張良の勧めに従って、漢王は陳餘を騙すことにした。
張耳と容姿がよく似た老兵を探し出して、首を刎ねた。適度に首を汚して紛らわせ、張耳の偽首を作った。残酷だが、勝つために漢王は手段を選ばなかった。
偽首を使者に持たせて陳餘に送ったら、果たして陳餘から良好な反応が返って来た。兵を割いて、漢王のもとに送ると言う。陳餘じしんは出向こうとしなかったが、この際かえって都合がよい。彼の憎む張耳は、実は死なずにいまだ漢王の庇護を受けていた。嘘は、なるたけ長くばれない方がよい。
こうして、北にも手を打った。
漢王は東に進み、洛陽に入った。
洛陽では、漢王が主役の芝居が待っていた。
洛陽で、漢王は附近の城邑の父老たちを集めて、民を慰労した。
「苦しませはしません、もう苦しませは、しませんよ、、、!」
漢王は、父老たちの手を取って、親しく語りかけて回った。
諸侯の通り道となっていた洛陽近在の城邑は、この頃疲弊しきっていた。
若者は兵卒に取られ、郷里に残るのは老幼婦人ばかりであった。そのため、諸侯の軍が通れば必ず行なう掠奪暴行の類に、抵抗する力すら衰えていた。早く、一刻も早く、戦が終わってほしい。それが、郷里に残された人々の、切なる願いであった。
丞相の手配によって、関中から洛陽に食が送り届けられた。民がまず欲するものは、何はともあれ目に見える物であった。餓えの恐怖を取り除いて、初めて心が開く。漢王は、洛陽の民の胃の憂いを取り除いてから、しかる後に心の憂いを取り除く手を打った。
漢王の笑顔に、父老たちは泣いた。
彼らの口から、嗚咽と共に声が漏れた。
「大王だけが、頼りでございます、、、どうか、この戦の時代を終わらせてください!大王だけが、天下の望みでございます、、、!」
しかし、漢王は首を振って言った。
「いけません。寡人(それがし)は、諸侯の一人に過ぎないのです。寡人は、もとより関中の王となるまでが約束でした。それ以上に、進むことは不義なのです。どうか、どうかそれ以上言わないでください、、、!」
もちろん一から十まで、漢王の演技であった。漢王は、父老たちに話し掛ける言葉の端々まで、事前に打ち合わせていた。だが、名演技ゆえに父老たちは酔った。大王の姿が、いにしえの周の武王に二重写しとなった。
感動が最高潮に達したところで、やにわに父老の一人が立ち上がった。
新城の三老の一人、董公であった。
「大王、、、!どうして、あなたは義帝の讐(あだ)を討たれない。主君の讐を討たぬならば、それこそ不義ではありませんかっ!」
漢王は、狼狽した。
「な、、、何を言われる。」
董公は、言った。
「義帝が、すでに項籍によって弑逆されたことを、ご存じないのですか!項籍こそは、不義不忠の逆賊。これを進んで討つのは、天の命じることですぞっ!」
漢王は、途端に震え出した。
それから、やにわに上衣をかなぐり捨てて、肌脱ぎとなった。
彼は、突っ伏してわっと号泣した。
「― 悼(いたわ)しや、義帝!憎きかな、項籍!、、、」
ものすごい、泣き方であった。
父老たちもまた、漢王の涙に誘われて号泣した。
そこに、張良子房が現れた。
彼は、漢王に近づいて、申し上げた。
「もはや、意を決する秋(とき)でございます。諸侯に号令して、義帝の讐討ちの兵を挙げることを、速やかに伝えられよ。」
しかし、漢王は張良の言葉を押し留めた。
「何を言う。喪を、発しなければならぬ。最初に、義帝の喪を発しなければならぬのだ―!」
この洛陽での一部始終は、漢王のために後々まで宣伝された。董公の登場も、漢王の涙も、張良子房が全て筋を書いたものであった。政治とは、民が望むものを与えることであって、人間の真実を見せても政治には役に立たない。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章