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八 華麗なる不義者(2)

(カテゴリ:楚漢の章

亜父范増の前に現れた陳平は、重大な情報を持ち出した。

「― 殷王が、漢王に降りました。」
陳平が告げたことは、亜父にとって最近の憂色に追い討ちをかける材料であった。
殷王司馬卬(しばこう)は、もと趙の将軍であった。功績が大きかったので項王に認められ、王に高められた。関中で王に封建されることが告げられたとき、殷王は項王に泣いて感謝して忠誠を誓ったものだった。
その殷王までが、項王に背を向けたというのか。
亜父は、憂いで顔面の皺を深くした。
彼は、陳平に言った。
「以前には、こちらから送った韓王が漢に追い出された。つい先日には、西魏王もまた漢とよしみを通じたと聞かされた、、、殷王も、同じであったか。」
漢王は、関中の確保だけが望みであると、主張している。
しかし漢王はすでに韓、西魏を確保して、今また殷を取り込んだという。殷王の版図は、西楚の彭城までの一足飛びの道を漢王に用意するだろう。言葉で何と言おうが、漢王が彭城を狙っているのは行動で明らかであった。
陳平は、言った。
「漢王の意図は、明白です。彼の言葉に、一片の信も置いてはなりません。このままでは彭城から西は、漢王の通るがままです。」
亜父は、苦渋に満ちた声で言った。
「― わかっている。分かり過ぎるほどに、わかっているのだ、、、」
漢王の意図は分かっているが、攻める軍がない。こちらから攻撃を仕掛けるからには、絶対に勝たなければならない。だが、絶対の勝利を保証してくれる項王は、いま斉を攻めていた。
亜父は、言った。
「大王は、いずれ戻って来る。戻って来るまで、戦端を開くわけにはいかない。残された我らでは、諸国を攻めても勝てぬ。」
陳平は、亜父の判断が判断になっていないと難じた。
「、、、ではこのまま彭城を守っていて、亜父は守り切れるとお思いなのですか?」
亜父は、言葉を返すことができなかった。
陳平は、言った。
「大王は、彭城をとんでもない城市に作り変えてしまいました。もうそれがしは、この彭城を守る策が思い付きません、、、いやはや、大王の夢は、我ら凡俗の考えをはるかに越えておられますよ!」
彼は、芝居がかった仕草で、頭を掻きむしった。
わざとらしい陳平に対して、亜父は冷ややかな視線を向けた。彭城が守れないことなど、亜父にはとっくに分かっていることであった。ゆえに、亜父は項王の天才が局面を打開してくれる可能性にしか、すでに希望を抱いていなかった。そのかすかな希望が空しくなれば、この城市で死ぬばかりであった。
亜父は、陳平に言った。
「、、、要するに、貴公は討って出たいと、言うのだな。」
陳平は、亜父の洞察に感謝した。
「殷王ならば、それがしでも降すことができます。ですがこのまま殷を漢に取られることは、すなわち彭城を陥とされることに等しい。項王のご帰還の時間を稼ぐためにも、それがしを殷に向かわせていただきたい。よいですか―」
彼は、亜父に殷王を降すための作戦を披露した。
亜父は、彼の作戦を聞いて、言った。
「なるほど。もとの魏王咎(きゅう)の配下を使って、項王が来たと触れて進むのか。」
陳平は、得意げに答えた。
「そうです。殷王は、項王の強さを知り過ぎています。彼の恐怖心を煽るだけで、覿面(てきめん)に心変わりを思い立つのです。後は、それがしの舌三寸を使って殷王の心を固めてしまえば、万事仕上がります。」
亜父は、腕を組んでしばし考えた。
それから、陳平に言った。
「よいだろう。兵を連れて、殷に向かうがよい。」
陳平は、亜父に深く拝礼した。
「ありがたき、幸せ―!」
だが亜父は、付け加えた。
「ただし、項悍(こうかん)と共に進め。必ず、二名で行動を共にするように。」
亜父は、この食わせ物が逃亡する腹づもりを持っているかもしれないと、疑った。それで、項氏一族の者を隣に付けて、監視させることにした。
しかし陳平は、平然と亜父の条件を受けた。
「― 承知、いたしました。」
こうして、亜父の承諾を受けて、陳平は殷に向かうことになった。出征に当って、新たに信武君という称号が彼に与えられた。
殷の平定作戦は、陳平の言ったとおりに進んだ。
項王兵を率いて来襲するとの報が、殷の朝廷に飛び込んだ。
殷王は、項王と聞いただけで震え上がった。
そこに、陳平が乗り込んで来た。
陳平の説得に、殷王はすぐに応じた。こうして、殷王は項王への忠誠を誓った。
だが、陳平が亜父に説明した内容には、一つだけ事実と違う点があった。
殷王は、じつはまだ漢王に通じていなかった。
陳平が事実を曲げてまで殷に赴いた理由は、この国で二重外交を行なうためであった。
公の朝廷の席では、項王の強さを論じて殷王を従わせた。もとより背く決意をしていなかった殷王なので、説得に応じるのは当たり前であった。
そして、その裏で秘密に王と会見し、正反対のことを論じた。監視の目をすり抜けて王と会う術など、陳平に取っては手の平を返すほどに容易なことであった。
陳平の自在の話術は、王を篭絡した。
王は、項王の命運が尽きようとしていること、漢王が旭日の勢いにあること、今は漢王に通り道を差し出すより他はありえないことを、陳平に信じさせられてしまった。
陳平は、こうして殷で秘密の仕込みを行なった。勝利して凱旋する彼は、もちろん何食わぬ顔で彭城に帰った。
陳平は、功績を賞されて都尉に任じられた。都尉といえば、将軍に次ぐ高位の武官である。
「戦のできない俺が、都尉か。はっ!、、、箔付けには、なるかもな。」
陳平は、与えられた辞令の木簡を、回して弄んだ。
彼が凱旋してから週日も経たぬうちに、殷王が本当に漢に降った。曹参らが率いる漢の軍が、殷の土地に入った。
陳平は、いちはやく情報を知った夜、自分の豪邸にいた。
「さてと― 仕事も済んだし、逃げるとするか。」
彼は、広々とした自分の室で、大きく伸びをした。
室内は、昨日と何一つ変わっていなかった。彼は、逃げる馬車を用意した以外に、身辺の整理などする気もなかった。陳平は、これから体一つで逃げ出すことを思うと、何だかぞくぞくと嬉しくなって来た。逃げれば必ず道を開ける自信が、彼の中に満ちあふれていた。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章