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八 華麗なる不義者(1)

(カテゴリ:楚漢の章

「― 俺は、この身一つあればいいのさ。たとえ裸にされても、またすぐに富貴を取り戻すことができる。俺にとって富貴を掴むことなど、簡単にすぎる。」

彭城の城市で最も豪華な邸宅に戻って、妻にそんなことを語っていたのは、陳平であった。
彼は爵卿という高い身分にものを言わせて、城市の中で目を付けた物件をいくらでも接収することができた。君主の項王が宮殿や邸宅などに頓着しないため、城市には優良な邸宅が手付かずのままであった。いま彼が住んでいるのは、役得で接収した一軒であった。他にも、彼が私している邸宅が城市にはいくつもあった。
陳平の妻は、夫にいつもの調子で答えた。
「何だかよく分かりませんが、、、あなた様は、すごいです!」
彼の妻は、いつもながらの尊敬の目を夫に返した。
陳平が郷里にいた時代に、彼女を娶った。彼の郷里は、陽武の戸牖(こゆう)郷。郷里時代の陳平は、貧窮から始まった。それが、戸牖の富家の娘である彼女に目を付けて、見事にせしめた。妻の実家の援助を受けて懐を豊かとなし、その金でどしどし人と交遊した。交遊の幅を広げながら、天下の状勢を読み取る目を磨いて行った。陳平は、つねづね才能ある人間は富貴を進んで取るべきだと考えていた。富貴の助けがなくては、脳中の智恵は力とならない。彼にとって資本はあくまでも己の才能であり、富貴は資本を転がすために必要な手段であった。
妻は、夫より一回りも歳上であった。無理もない。彼女は、郷里で五回も嫁に行って、その都度夫に死に別れた。彼女の罪ではないのであるが、郷里では凶を呼ぶ女として誰も相手にしなくなっていた。だが若い陳平は、凶など気にしなかった。どうしても貧窮から抜け出す必要があった彼にとって、彼女を娶って富家に感謝されることは、いわばお得な買い物であった。
陳平は、妻にいつもの講釈をしていた。
「こんな戦乱の時代には、金を抱えて郷里でじっとうずくまっていたら、かえって危ない。諸侯の真ん中に飛び込んで、権力の側に寄り添ったほうが泳ぎ易いというものさ。何せ、俺には才能があるんだからな。それで、俺は進んだ― このとおり見事に、成功しただろう?」
得意がる夫に、妻はうなずいた。
「本当にあなた樣は、どんどん上に昇って行かれました!、、、我が実家の富貴など、もう比べることもできません。」
陳平は、にやにやしながら言った。
「だが、昇り詰めて王になってはならない。なぜだか分かるか?」
妻に、分かるはずもなかった。彼女は、首を横に振った。
夫は、言った。
「王になると、逃げられないからさ。最後の一人まで勝ち上がらなければ、負けた王は殺されるしかない。何とも、割に合わないじゃないか。これが、『亢龍悔あり』ってわけなのさ。」
夫が引用したのは易経の一節であったが、妻が知っているはずもない。妻は、わけの分からぬままにうなずくばかりであった。
陳平は、戦乱が始まったときに諸侯の懐に飛び込む決意をした。
まず、復興した魏に赴いた。彼の郷里の戸牖は、もと魏に属していたからであった。
だが、しばらくして讒言を嫌って逃げ出した。彼の処世術は、己の嗅覚で危ないと思ったら、このまま留まることによって得られるであろう利益と冷静に比べることであった。それで、割に合わないと判断したら、直ちに逃げる。魏は、大きな果実を得る見込みのない国であった。
その陳平が見出したのが、項王であった。そのようにして、彼は秦を討とうとしていた項王の前に現れた。目論見通り、項王はとてつもない率で成長を遂げた。彼に寄り添うことによって、陳平はこうして秦末の戦乱を生き残り、富貴を得ることができた。
陳平は、今働き盛りの年齢であった。背が高くて肉付きは行き過ぎることもなく豊かで、嫌われることが難しいほどに人好きのする容姿であった。彼はにこにこと笑みを湛えながら、妻が差し出した香草の煎じ湯などを啜っていた。
もちろん、女遊びも適度にやっている。すでに年配に近い妻に対して、彼が性愛を求めるのは無理な相談であった。だが、それでも陳平は妻のことを今でもそれなりに大事にして、こうして家に戻っては彼女を煙に巻いて時間を過ごしたりしていた。
(本妻は、このぐらいがいちばんいい。項王の虞美人など、添い遂げたら男を突き上げるばかりで災厄しかない。)
陳平は、虞美人の愛を受ける項王のことを、羨ましいと思ったことは一度もなかった。しょせん、彼ら二人と自分たち夫婦は、違う世界の住人であった。
相変わらずにこにこと夫を見ている妻に対して、陳平は言った。
「― お前は、これから郷里に戻れ。」
妻は、驚いて聞いた。
「ど、、、どうしてでしょうか?」
陳平は、彼女に言った。
「この彭城は、そのうち危ないことになる。俺は、これからまた身一つで進退を考えなければならない。お前が彭城にいては、俺は自由に判断ができなくなる。すでに帰郷の手配をしているから、戸牖に戻るがよい。」
夫の判断に、妻が口を挟めるわけもなかった。
妻は、帰郷することを承諾した。
「さて、、、少し考え事をしたい。もう一杯、湯を注いでくれないか?」
陳平は、心配する妻に莞爾(にこり)として言った。まことに、人を安心させる笑顔であった。
一人になってから、彼は思いを巡らせた。
「― 項王は、斉一国を平定することにも失敗した。力だけで押す彼のやり方では、反乱を抑えることができない。ましてや、彼が天下を平定できる見込みは、もはや全くないと言える。項王には、長い目で見て勝ち残る見込みがない。いっぽう漢王は項王の失策に助けられて、ますます太っている。項王と漢王は、やがて勝負をするだろう。項王は戦の天才だから、当座の勝負はどうなるか分からない。だがたとえ項王が漢王に勝ったとしても、それで項王が今以上に得られるものは、何もない。天下を治めることができずに、いつか倒れる運命が待っているだけだ、、、」
陳平は、湯を一口飲み干した。
それから、彼は独語した。
「勝たせるか、、、漢王に。」
彼は、いつもの計算をしていた。このまま項王の側にいても、今以上に項王が成長することはない。覇王は、今が絶頂なのだ。いっぽう漢王は、もしかしたら天下を取るかもしれない。今は、急成長の真っ最中であった。陳平の才能を使えば、今ならば王の側にたどり着くことができる。漢王の下に向かうならば、早ければ早いほどよい。
陳平は、湯を机に置いて、やにわに起ち上がった。
彼は、直ちに留守を守る亜父の陣営に向かっていった。杯の湯は半分以上も残っていたが、決断した以上は飲み干す時間すらも惜しかった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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