«« ”七 烈夫に烈婦(1)” | メインページ | ”八 華麗なる不義者(1) ”»»


七 烈夫に烈婦(2)

(カテゴリ:楚漢の章

夫の劉邦は漢王に昇り、その漢王の正后はといえば、阿雉すなわち呂雉。

彼女は、秦攻撃に向けて旅立った夫を見送って、義父や子供たちを守るために沛に留まっていた。
夫は大成功し、望外の出世を遂げた。彼女は、夫のために何と王后に昇ってしまった。
しかし、王后とはこのように情けない身分なのであろうか。
夫は西に行ったまま、辺境の土地を与えられてそれきり戻って来ない。
家族を挙げて漢中に移るように、との沙汰も下りて来ない。
今や項王の領地に組み入れられてしまった沛に押し込められたままの呂雉や劉家の家族は、まるで人質であった。実際、亜父范増などは沛の家族を漢王の人質だと見なしていた。聡い阿雉は、家族を守るためにこれまでじっと我慢して動かずにいたのであった。
その阿雉が、にわかに漢王のもとを訪れて来た。
嫡男の盈(えい)と娘の手を引いて現れた妻に、漢王はとりもあえず久しぶりの夫婦対面をした。
漢王は、妻に言った。
「よく、ここまで来られたな!、、、お前という奴は、つくづく俺を驚かせる。」
阿雉は、高笑いをした。
「王陵の手の者が、沛にやって来たのです。我ら劉家の家族を、迎えに参上したと申しましてね。ですが、大挙して動くのはいかにも危険。項王は彭城におりませんが、いまだに沛の面々は手中の卵のようなものでございます。それで、沛にいる諸将の家族たちを代表して、我ひとりで大王のご意向を伺いに参ったのでございますよ。」
王陵は、漢王が関中を攻める直前にいちどは彼の傘下に入った。だがその後漢王が漢中に追放されたのを見て、見込み違いであったかと再び離反してしまった。しばらく武関の外をうろうろしていたのだが、何月も経たぬうちに漢王がまたも蜂起の兵を挙げたと伝わって来た。またたく間に関中を取り返した勢いを見て、王陵は見込み違いの見込みが違ったことを痛感した。それで、ぬけぬけと漢王に再度馳せ参じた。漢王は散々嫌味を言いながら許したが、王陵は何か手柄がなくては大王の心証が悪いと悩み、沛に手を回して阿雉と接触したのであった。彼女が関中に来られたのは、王陵の手配であった。
「なるほど、王陵の手引きであったか、、、だが、お前が来ることはないのに。」
あきれる夫に、阿雉は答えた。
「沛で一番役に立つのは、この我ですので。他の者には、任せられません。」
沛には彼女の二人の兄や、樊噲の妻となった妹も留まっていた。阿雉は、その兄たちすらも差し置いてやって来た。彼らよりも確かに自負と手腕で勝っている、阿雉であった。漢王は、妻の言う通りだと得心してしまった。
阿雉は、夫に聞いた。
「― いつ、沛にお戻りに?」
漢王は、答えた。
「もうすぐだ。間もなく一挙に、彭城に入る。それまで、沛の者たちを固めて待つがよい。」
阿雉は、言った。
「戦ならば、さっさと済ませてくださいよ。沛で我らが、どれだけ苦労しているか、、、ああ、泣けて参ります。」
呂雉は、わざとらしい嘘無きの素振りをした。彼女が毎日大変な気遣いのうちに生活しているのは、事実であった。だが、そのような気苦労でへこたれる彼女ではなかった。漢王は、にこやかに笑って彼女をいたわった。
「阿爸(父さま)、、、!」
彼女の横には、娘と息子がいた。
この子たちと会うのも、漢王はじつに久しぶりであった。
「ああ、、、元気していたか。」
漢王は、父親として声を掛けてやった。子供たちには、漢王はそれでおしまいであった。
阿雉は、不満で言った。
「もっと、子供たちを可愛がってくださいよ。」
漢王は、答えた。
「何を言う。可愛がっているさ。」
阿雉は、夫に反論した。
「ぜんぜん、足りません。せっかく、連れて来たのに。盈は、あなたの嫡男ですよ。」
盈は、五歳ほどに成長していた。世の親ならば、最も可愛がり気遣ってやまない年頃であった。なのに、夫は以前と同じく素っ気なかった。人の情に反した振る舞いには、きっと裏があると阿雉は苛立った。
「あなた様は、王ですものね、、、」
そう言った阿雉の声は、熱が引いていた。
漢王は、困惑して言った。
「― なにが、言いたい。」
阿雉は、答えた。
「王ともなれば、富貴は思いのまま、、、」
漢王は、言った。
「お前も、贅沢がしたいのか。」
夫のはぐらかしに、彼女は醒めた声で答えた。
「いえ、、、別に。」
妻は、目を背けてしまった。漢王は、怒ることもできずに席を立ってしまった。王として、公事があまりに忙しいと言い残して。
夫の心理の裏は、すぐに彼女に明らかとなった。
漢王が寵愛並々ならぬ戚氏が、男児を産んでいた。
王の家庭の喜びは、すでに戚氏と共にあった。戚氏は、阿雉よりもずっと若くて美しかった。阿雉もかつては容姿に自信があったつもりであったが、今や戚氏とは比較にならない。戚氏は高位の貴人の食膳に昇るべき、最上級の美人であった。阿雉は、もはや田舎の年増女にすぎない。夫は、大王の富貴を豊かに食していた。当然の、なりゆきであった。
阿雉は、櫟陽の仮宮の奥で、泣きに泣き伏した。
夫の女遊びには、慣れていたつもりであった。
だが、今の夫は心までもが、自分から上離れしようとしていた。
それが、悔しくてならなかった。
「阿媽(母さま)、阿媽。どうして泣くの!」
彼女の横で、息子の盈がいっしょになって泣いていた。彼女は、息子を折れるほど抱きしめて、声を挙げて泣いた。息子が胸の中で息苦しくてもがいているのも、うっかりして気が付かないほどの激しさであった。
翌日。
漢王は、阿雉が子供たちを連れて沛に戻ってしまったことを、聞かされた。
夏候嬰が、漢王に報告して来た。
彼は、言った。
「このまま関中に留まられた方が安全だと、何度もお勧めしたのですが。せめて盈さまだけでもお遺しになられよとも、臣は申したのですが―」
漢王に伝える夏候嬰は、何とも気まずそうであった。
「申したら?」
漢王は、聞いた。
夏候嬰は、しばらく言葉に詰まった。
そう言った彼を、阿雉は恐ろしい声で一喝した。
「義父(ちち)が、まだ沛におります。お主らの家族もまた、沛で苦しんでいるのです。それなのに、君主の妻子のみがぬくぬくと後方に留まってなどおられますか。我が夫に、伝えなさい― 一刻も早く、沛に参られよと!」
彼女の目は、男どもまで威圧するような、厳しさであった。
夏候嬰から妻の言葉を聞いた漢王は、深く息を付いた。
「― そうか。さっさと沛に、行くしかないなあ。」
漢王は、彼の烈しい正妻に気圧されてしまった。天下取りに動こうとしている男であったが、この女は彼の弱点であった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章