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九 故郷に帰る猿(2)

(カテゴリ:死生の章

この席で、あえて項王に異を唱えようというのか?

各人は、互いに目を見合わせた。
男は、続けた。
「― 天下に覇を唱えるべき土地とは、この関中に他ならず。関中は、山河に深く阻まれたいわば四塞(しさい)の地。かつその土地は、肥饒(ひじょう。肥えて豊か)なること天下に冠する。この地に都を置いてこそ、天下に覇たることができるのだ。大王は、秦の歴史から何も学ばれないのか。どうして関中に都した秦が、戦国二百年間敗れることを知らず、六国を年々蚕食し、やがて始皇帝により天下を併呑したのであるか。じつに、地の利が国を守り、国を養った故(ゆえ)ではないか。大王が覇王として天下を睥睨なさろうと思われるならば、どうして地の利を活用せず、それに逆らうような遷都を行なうのであるか、、、彭城などは、平地の只中にあって守るに難く、周囲の土地は瘠せて実りに乏しく、その上に、たかが楚地ではないか。中原の風を知らぬ鄙びた楚地にあって、天下の進取先進の人士を集められるとでも、思われるのか。関中を棄てて彭城に都するなどは、大王は天下を経営する術を知られぬと、判断するより他はない― 大王よ。東に帰るなどは、ひどい過ちであるぞ!」
項王は、舌鋒鋭く弁じた男を、きっと見据えた。
この男の、言葉。
それは、陳平が封建案を立てる際に、当初項王に薦めた言葉と同じであった。
陳平は、四塞で肥饒なる関中の地には、項王自ら都するべきであると策した。この土地に宮廷を置き、各国より人質を留め置いて、咸陽を再建なされよ。それが、陳平が項王の政権を維持するために出した献策であった。だが、項王はその案を怒って取らなかった。陳平は諂い、項王を関中に都させる案は撤回されたのであった。
男は、立ち続けた。彼は、雍王に封じられた章邯に従って。この席にあった弁士であった。主人の章邯は、今や項王の前で何一つ語る気概を失っていた。もはや彼は、かつての名将の形骸に過ぎなかった。しかし、配下の彼は立ち上がり、この楚人の大王に対して平手打ちを食らわしてやろうと奮い立ったのであった。
項王は、彼に言った。
「― 楚に、中原の風などは要らぬ。楚は、楚なのだ。関中の秦は、すでに敗れた。これまでの常識は、もはや通用しない。勝利した楚から、私は新しい天下を始めるのだ。私は、新しい時代を信じている、、、何の過ちが、あるだろうか?」
項王にとって、中原の文化などはもはや興味がなかった。
この中国が唯一の社会ではないことを、彼はかつて戦ったギリシャ人の騎士から教わった。中国の外にはもっと広大な世界があり、そしてその世界のほとんどを征服したギリシャ人は、彼の住む中国の民よりも気概と怜悧さで勝っていた。外の世界を知った彼にとって、中国を治めることはあまりに狭い目標であった。彼は、全く新しい時代を始めたかった。それが、偽らざる今の彼の抱負であった。
項王は、彼の若い抱負を素直に弁士に返した。これまで周囲にはひれ伏す者ばかりで、彼は自分の心中について対話する相手すら失っていた。それで、今立ち上がった厳しい言葉を叩きつける弁士に、彼はむしろ内心で喜んでいた。項王の表情は厳しかったが、軽蔑の色はなかった。
だが弁士は、項王の言葉を喜ばなかった。
彼は、項王に吐き棄てるように返した。
「まるで、内容のない言葉、、、!何という、若すぎる妄言、、、!長い長い歴史を掛けて、天下の治まるべき形は作られているのだ。歴史は、関中からでなければ広大な中国を治められぬと教えている。それを無視して、新しい天下ですか?大王の、新しい時代ですか?思い上がりも、いい加減になされよ!大王の本心は、単に故郷に帰りたいと望んでいるだけでは、なかろうか?そのようにしか、私には見えぬ。だが、楚地からでは決して天下は見えない!」
弁士は、この中国の世界から項王に反論した。しょせん、違う世界を見ている両者であった。意見が合うはずも、なかった。
項王は、弁士の楚を貶める言葉に、機嫌を害した。楚を田舎者扱いすることは、それまでの中国の常識であった。項王は、常識に反発心を覚えた。
彼は、言った。
「― 私は、関中の地が嫌いだ。この風景は、私の心を枯れ果てさせる。私は、このような土地にいたくない。」
たとえ田舎臭くても、楚は彼の生まれ育った土地であった。項王は、彼の心の住処に戻りたがっていた。楚には、彼の最も大切なものがあるように思われた。関中はいかにきらびやかであっても、彼が捨ててはならないものを見つけることができなかった。
楚の土地には、中原にはない陽気な風俗があった。各国には、各国の気風があった。文化人気取りで議論好きな、斉の国人。遊牧民のように殺伐とした、趙の国人。古風で保守的な、魏の国人。利に聡く商いを好む、洛陽の周人。秦の関中は、もとは素朴な民が住んでいた土地の上に、大帝国の中心として全国から人が集められていた。それゆえ、関中人はどの国の民のようにも見えたし、またどの国の民の特徴も持ち合わせていないかのように見えた。項王のような楚人の感情に即して言えば、関中はまるで土地から生えていない、拵(こしら)えものの味がするような国であった。項王は、それを嫌がった。項王は、心のままに関中を棄てる理由を述べた。
彼は、一つの言葉を思い出した。
「世に言う、『富貴にして故郷に帰らざるは、錦繍を着て夜歩くが如し』と― 人は、その故郷から生き始め、そして故郷と共に生き続けなければならないのだ。関中は、我が故郷となりえない。それゆえ、私はこの土地を去って、惜しくはない。」
弁士は、項王の言葉を聞いて、彼に聞いた。
「― それで、咸陽を焼いたのか。」
項王は、答えた。
「― そうだ。」
弁士は、低い声で言った。
「、、、私の一族は、咸陽で全て殺された。何もかも奪われ、妻子兄弟ことごとく、兵卒に嬲り殺された。我が国を亡ぼし、天下の都を屠り、私から全てを奪った男、、、それが、お前だ。お前は、私の仇敵だ。その仇敵には、誰よりも強く、賢く、兇悪であって欲しかった。そうでなければ、敗れたことの理由に合点がいかないではないか?」
弁士は、語った。
彼は、秦の敗残者の一人であった。最も強く、最も進んでいたはずの、彼の故国。それが、田舎扱いしていた楚人に屠られてしまった。つまりは、自分たちは中国の先頭に立つ資格がなかったのであろう。彼らは、そう思わざるをえなかった。
弁士は、声を荒げていった。
「だが、今日知ってしまった。お前は、ただの孺子(こぞう)だ。兇悪なだけの、度し難い田舎者であるわ。秦は、田舎から上って来た孺子ごときに亡ぼされてしまった。我が妻子も、一族も、咸陽の都も。こんな田舎者のために、、、こんな川猿ごときに、、、空しくて、ならない!」
彼は、ついにけたたましく笑い始めた。
「世間の通り相場は、本当であったわ!

― 楚人は、沐猴(もっこう。猿)にして冠するのみ!

果たして、然り!お前ら、楚人ごときにこの天下が、治められるわけがない。せいぜい、一時だけいい気になっているがよいわ!そのうち、お前も亡びることになるぞっ、項籍!天下を、侮るでないわ!」
弁士は、哄笑した。彼は、項王を笑い飛ばすと共に、ここに居並ぶ諂う愚か者たちをも、嘲笑った。
項王は、彼の言葉を聞き終わっても、座したままであった。
彼は、怒りを交えながら、しかし半分は笑っていた。
項王は、男に言った。
「勇気ある、男よ、、、死を覚悟して、語ったか。」
それから、微笑みの度を大きくしながら、言った。
「お前に、報いてやろう― 煮殺せ。」

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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