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九 故郷に帰る猿(3)

(カテゴリ:死生の章

弁士から冠を着けた沐猴(さる)と痛罵された項王の命令は、しかし貫かれた。

項王は弁士を烹(に)て殺した後、四月に関中を出発した。
封建されるべき王たちが、後に従った。
誰もが、項王に服従を誓い、返す言葉も出さなかった。
しかし、彼らは真に覇王に心服しているのであろうか。
広大な天下に王たちが散って行った後、彼らは真に項王の威光に従うことができるだろうか。
覇王の封建は、多くの者どもに怨みを残す内容であった。怨みが残ること自体は、やむをえない。諸侯の望みを全て聞けば、中国の領地がいくつあっても足りないぐらいであった。論功行賞とは、必ず無念の者どもを作り出すものなのだ。だが、その無念の怨みを反乱に発展させないのが、政治であった。色々と策を練ったところで、最終的に不満を挫く力は結局武力しかありえない。項王の政権は、彼の恐るべき武力だけが頼りであった。そして真っ先に反乱する者は、おそらく彼の武力を目の当たりにしていない連中となるであろう。
漢王となった劉邦は、東に向かうことができなかった。
漢王の部隊は、戲から西に向かい、かつて駐軍していた覇上の前を通過した。
「ここを通れば、沛に戻れるのに、、、」
沛出身の武将たちは、皆がそう思った。覇上から勇んで関中に入った頃が、懐かしかった。今や夢破れて関中から去ろうとしているが、さりとて郷里に戻ることもできない。漢王の将兵たちは、暗澹たる思いで重い歩みを進めた。
やがて漢王の部隊は杜南(となん)を通り、秦嶺の山の中に消えて行った。
彼らが彼方に追いやられたのとは全く逆に、項王は晴れやかに故国に凱旋した。
爽やかな夏の空気が、平原を駆け抜けていた。
「おお、、、泗水!」
項王は、心弾んだ。昔ながらの、河岸の風景が遠目に飛び込んで来た。彼の楚に、戻って来たのであった。
沿道は、麦を刈るべき季節であった。だが、このところ戦乱続きの上に天候が不順で、民の生活は弱り切っていた。彼の行軍の途上に通った他国では、明らかに飢餓と窮乏の姿が見えた。窮乏は流民を生み、流民は匪賊と化して他郷を襲う。襲われた他郷は生活を壊され、彼らもやがて流民となってしまう。そのように、窮乏は伝染する病気であった。天下の多くの土地で、生活が破壊されていた。
彼の戻った楚も、勝者とはいえ疲れ果てていた。秦を倒し天下を制した国の民とは思えないほどに、老いた者も幼き者もその表情に喜びはなかった。
ただただ、もう戦はやめてほしい。
彼らの声なき声は、凱旋する将兵たちにそのことを告げていた。
奇蹟の覇王が、全軍の先頭を切ってやって来た。
この国の者どもの誰も見たことがない、大きな美しい馬に乗ってやって来た。
騅にうちまたがる若き勇姿は、どんなに鈍感な者でも震えさせずにはおられなかった。
沿道の民は、項王にひれ伏した。
前代未聞の姿に、彼らは神を見るかのようであった。
「項王は、神か。神ならば、我らを救ってくださるであろう、、、」
民の全てが、項王に期待した。期待するものは、天下の安寧と、今年の秋の祭りが穏やかに行なわれることであった。それらが失われて数年にもなることが、今の民の痛みであった。
項王のはるか前に、城市の門が見えた。
これから都となるべき、彭城の城門であった。
項王は、顔を明るくした。
「おお彭城、、、我が夢の、都!」
項王は、そのうちに居ても立ってもいられなくなった。
「騅よ、走れ!」
彼は、馬の腹に勢いよく合図を送った。
騅は、高くいなないて猛然と駆け出した。
素晴らしい加速で、遠くにあったはずの城門がみるみる近づいて来た。
今日は、いまだ彭城に居を構える義帝が、諸侯を迎える儀式が行なわれるはずであった。
しかし、項王はそのようなくだらない式典など、すっかり忘れてしまった。
「あっ、、、!」
義帝の官吏が屯(たむろ)する城門を、項王は全速力で駆け抜けた。儀式の準備をしていた者どもは、呆気に取られてなす術もなかった。
「― 戻ってきたぞ!、、、私だ。私だ!」
項王は、大音声で呼ばわった。城市の隅から隅まで聞こえるほどの、声であった。
項王と馬は、城市の中へ真っ直ぐに走って行った。
急に、騅が走りを止めた。
項王は、不審に思った。
その彼は、やがて喜びにあふれていった。
「ああ、、、私は、目の前すら見ていなかったなんて!」
城門から続く街路の真ん中に、人が立っていた。騅は、その人影の前で止まったのであった。
「前ぐらい、ちゃんと見なさいよ。あなたは、やはり子供だね―」
微笑んだ女は、虞美人であった。
「魏美人!私は、帰ってきた!帰って来たんだ!」
項羽は、馬から飛び降りた。
そうして彼女を強く抱きしめて、艶やかな髪に接吻した。
虞美人は、言葉を返さなかった。
もちろん、彼が覇王となって帰って来たことは、彼女の喜びであった。ついに彼の項羽は、天の頂上に登った。だが不思議でも、ない。奇蹟でも、何でもない。
(この子ならば、当然のこと、、、)
虞美人は、久しぶりに彼の匂いを嗅ぎながら、そう思った。この世界で唯一の男が、唯一であることを証明したのであった。天下は、彼にとって敵ではなかった。ただそれだけの、ことであった。
項羽は、接吻だけでは飽き足らず、そのまま彼女を押し倒した。
「ははは、やめなよ、項羽!」
虞美人は、困ったという言葉を出した。だが、声は笑っていた。
城市の街路の真ん中の行為に、人々は口を明けて見守っていた。
だが、二人は構うことすらなかった。もう誰も、この二人の目に入ることはない。
ひとしきり続いた後で、項羽は虞美人と向き直った。
項羽は、彼女の瞳を見ながら、言った。
「私は、この彭城を都とするんだ。」
虞美人は、答えた。
「まあ、それは素晴らしい。」
彼女の衣が、半脱ぎになって背中にまつわり付いた。虞美人は、少し気になった。だが、彼女は衣を正すこともせず、かえって全部脱いでしまった。
項羽は、高らかに笑った。
虞美人は、くすくすと笑った。
項羽は、言った。
「この彭城に都し、この騅を友にして、そしてお前と共に私は時代を作るんだ。私が北辰星となって、天に輝くんだ、、、ああ、どうして星が見えない?」
項羽は、空を見上げた。だが昼の最中に、星が見えるわけがない。見えるのは、蒼い空ばかりであった。
虞美人は、子供のように空を見上げる彼を見て、ひそかに思った。
(、、、何も、考えていないんだね。)
彼女は、項羽の前には何も見えていないことを、見抜いてしまっていた。
だが、彼女はそんなことを不安に思うのではなく、今は彼女のために項羽が戻って来たことを、ただ喜びたい気分であった。
虞美人は、最上の笑顔を見せて、言った。
「お帰りなさい、、、私の覇王!」
そう言って、彼の胸に飛び込んだ。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章