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十 再起に向かえ、我が王(1)

(カテゴリ:死生の章

項王は、彭城を都として梁・楚九郡の君主となった。

北は漢王劉邦の故国沛から、南は項氏の決起の地である江東までが、彼の支配するところとなった。
その真ん中を流れる淮水の下流域も、覇王の国に包み込まれた。
豊かな水を湛える、淮水の河畔に築かれた地方都市。
それが、淮陰の城市であった。
城市とは言っても、住民の大半は農家である。当時の城市とは、危険極まりない外界から身を守るために、城壁の中に住んでいるのであった。だから、その生業は郊外での農作業により立てる家族が、圧倒的に主流であった。古代中国では、農村を包み込まない純粋な城市などは、政治的首都を除けば存在しないといってもよい。
この淮陰にも、夏がやって来た。
郷里に住む家族は、どこでも農作業に忙しい。麦を作る家は刈り取りの季節であり、米を作る家は田に水を張る季節であった。麦を作るのは北から移り住んだ者たちの末裔であり、米を作るのは南の土地と文化を同じくする民の末裔であった。この淮陰は、数年の戦乱で戦場となることを免れた。徴発はあまりに厳しく、迫る秦軍の足音に夜も寝られぬほどの不安が続いた。しかし、戦場となった土地では今や死が支配しているのに比べれば、淮陰はずっと幸運であった。
去年頃から、時折北や西から流民が通過するようになった。もし楚人ならば、可能な限り食を与えた。だがもし斉人や魏人ならば、叩きのめした。北や西の戦場では、悲惨なことになっているという。斉や魏の民までが、追われてこんな南にまで彷徨うようになり始めた。だが、彼らとて余裕はない。余所者に食や農地を与えることは、できなかった。幸いに流民の群れはこれまで散発的で、何とか蹴散らすことができた。追われた彼らはどこぞをまた彷徨い、そのうち地の果てで死んだであろう。しかし、彼らに同情するような暇など、住民にはなかった。
土地に住む民が今日なすべきことは、実らせるために働くことしかできなかった。今年の夏は、ついに楚が秦に勝った夏であった。民は秦が倒れたことを聞いて、大いに喜んだ。だが敵を倒したという爽快感で喜んだ期間は、意外に短く終わった。人々はそれよりも、ようやく戦が終わったという安堵の感情で、ゆっくりと胸を撫で下ろした。
長い日の農作業を終えて、家族たちが戻って来た。皆が、早くも陽光に焼けた肌をさらしていた。遅い夕暮れの時間だけが、一日で心休まるひとときであった。
ひときわ背の高い男が、麦湯を一気に飲み干した。
「― ああ、美味い。」
男は、韓信であった。彼は、郷里の淮陰に戻っていた。軍も兵法も棄てて、実家で農民となっていた。
彼は戻って来てからというもの、人一倍野良で働いた。以前に淮陰にいた時の彼は、農作業を厭ってぶらぶら過ごすばかりで、地に足を着けずに風に煽られるような生活であった。だが、今の彼には土地と共に過ごす生活の方が、風雲を追い求めるよりもずっと輝いているように思われた。彼は、風雲を望み、兵法を学び、死生の間を戦って、そして傷付いて逃げた。
「何も、得られるところがなかったよ、、、何も、、、」
韓信は、二杯目の麦湯を啜りながら、一人つぶやいた。ここに戻って来てからの彼は、戦場での出来事を周囲の誰にも語らなかった。
飯を掻っ込んだら、急に眠気が襲って来た。
まだ、家中が寝静まるまでには時があった。
彼は、実家から離れた。
彼が好きな、城下の淮水の川辺に歩いて行った。
彼は、川辺に体を横たえた。
「― 今日も、陽が沈む、、、昨日も沈んだし、明日もたぶん沈むだろう。全ては、変わらない。変わらないのさ。」
大きな太陽が、地平線に身を横たえようとしていた。地平線の向うにまで、韓信は行った。戦は、苛烈であった。目を閉じると、忌まわしい風景が次々に浮かんで来た。韓信は、慌てて首を振った。この静かな淮陰の夕刻と彼の体験した悲惨とを、別の世界にしたかった。同じ夕陽に照らされたはるか向うの土地では、人間の生活すらも亡び去っていることは、事実であった。しかし、彼は考えまいとした。
「― 項王が、勝ったのだ。これで、戦は終わりだ。もうこれ以上の悲惨は、必要ない。今はもう、戦わないほうがよい。戦っても、その先には何もない。どうして、戦うのだ、、、」
彼は、うとうとと眠り始めた。
― ふと、耳横で水音が鳴った。
ばしゃばしゃと、布を川に漬ける音であった。
韓信は、音の方を向かずに、言った。
「― 夏は、綿を晒す季節じゃないだろう。」
横から野太い女性の声が、返した。
「ははは、音を立てれば起きると思ってね。王孫。」
韓信の横に座ったのは、林媼(ばあ)さんであった。この淮陰で綿を晒して暮らし、ぶらぶら時代の韓信を、何くれとなく憐れんで食わせてくれた。王孫とは、彼女が美丈夫の韓信のことを称えること半分からかうこと半分で呼んだ、敬称であった。
林媼さんは、韓信に言った。
「なあ、阿梅の後添いになってやっておくれよ、、、あんたしか、相手はいない。」
彼女はそう言って、韓信に何度目かになる依頼をした。
阿梅とは、林媼さんの姪の林梅のことであった。韓信もよく知っている、娘であった。
彼女は、韓信が淮陰から離れた二年前に、淮陰の名家の子弟に嫁ぐことが決まった。韓信は、彼女たちと別れて淮陰から旅立ち、項軍に参加した。だが、二年の年月が経って韓信が淮陰に戻ってみると、彼女は寡婦となってしまっていた。
この二年間は、死の時代であった。兵卒として倒れ、敵に城を屠られ、食を奪われて餓え、多くの民が死んだ。この淮陰は比較的平穏であったので、時代の風に煽られて死んだ者は不運であった。阿梅の夫は裕福で善良な男であったが、淮陰にやって来た流民を憐れんで隙を見せたのが、彼の油断であった。城市の郊外の地中に窖(あな)を掘って、備蓄の食糧を埋めてあった。彼は、流民をそこに連れて、振舞ってやろうとした。場所に着いたとき、隠れていた他の流民どもが、一斉に湧き出て男を襲った。城市の者どもが異変を感じて駆け付けたとき、凶行は終わっていた。城市の者が粟(ぞく)を掻き集めて盗もうとしていた流民どもを包囲して鏖(みなごろし)にしたのは、言うまでもない。しかし、阿梅の夫もまた帰らぬ人となった。
そんな不幸が、韓信の不在中にあった。
媼さんは、言った。
「― つくづく、不幸な娘だよ。」
韓信は、答えた。
「― そうだな。可愛そうに。」
媼さんは、彼を向いて言った。
「あの娘を救ってやれるのは、もうあんたしかいない、、、わかるだろう?」
しかし、韓信は横を向いた。
媼さんは、言った。
「王孫。何を、逃げる?」
韓信は、彼女の問いに答えようとしなかった。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章