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十 再起に向かえ、我が王(2)

(カテゴリ:死生の章

夕陽が落ちて、もう暗くなり始めていた。

韓信は横を向いたまま、寝てしまおうと思った。
媼さんは、言った。
「やっぱり、逃げているんだな、、、あんたは。」
韓信は、答えなかった。
寒くもないのに、長い両の手足をもぞもぞとさせて、少し身を屈(こご)めた。
媼さんは、この青年が好きであった。
好意を持っていたから、彼が気付いてもいない彼の本心まで、見通すことができた。
彼女は、言った。
「この城市に戻って来て、あんたは農作業なんかしている。忘れるために、働いているんだ。だから、今のあんたはちっとも楽しそうじゃない。今のあんたの目は、まるで生きていないよ。二年前のあんたは、そうじゃなかった、、、あんたはまた、つまらない男に戻ってしまったなあ!」
韓信は、さらに手足を体に引き寄せた。わざと、寝息を立てるような声を出した。
しばらく、河岸の二人には言葉がなかった。
媼さんは、それから優しい声になった。
彼女は、韓信の背中に言った。
「― それでも、あんたにはできることがある。これからどうなるかは、わからない。だけど、阿梅のことだけは、何とかしておくれよ、、、頼むよ。戦が終わったなんて、嘘だ。私には、分かる。これからも、厳しい時代が続く。項王なんて、ありゃだめだよ。ただの、子供だ。子供に、国が治められるわけがない。そんな奴の遊びのせいで、きっと私らは困ったことになるんだ、、、あんたは、滅多にいない出色の男だ。どうか私たちの命を、守っておくれよ、、、ね。」
彼女は、韓信の背中に手を置いた。
韓信は、もうわざと動くのを止めた。
媼さんは、彼の背中に微笑み掛けて、それから城市の中に戻って行った。
闇の中に、韓信だけが残された。
今日の彼は、城内に戻る気が起こらなかった。
(― 厳しい、時代、、、)
韓信がどのように自分で思い込もうとも、民の目は騙されることがなかった。この数年の激動を恐れに震えながら見守って来た林媼さんのような人から見れば、これで太平の世が訪れるはずがなかった。ついに勝ち上がった項王は、しかし強いだけの子供であった。誰も、内心では彼に従っていない。民は、野獣どもの食い合いに参加していない分だけ、韓信などよりもずっと勝ち負けの帰趨がはっきりと見えていた。
(― いっそ皆を連れて、東の海に逃げたら、、、そうすれば、王もいない。中国にいれば、結局上には王侯将相がいるだけじゃないか。奴らが民のために善いことをするなんて、ありえない。絶対に、ありえない、、、)
そのようなことを、韓信は思った。
だが、今は考えも続かなかった。
やがてそのまま、寝入ってしまった。

朝の光が、瞼の裏を焼いた。
「目が、覚めた?」
韓信の耳に、女性の声が響いた。
彼は、まだ起きぬ頭を天に向けて、目を明けた。
「― あなたは、ここが好きなのですね。」
微笑む女性が、彼の顔を覗き込んだ。
女性の後ろには、一人の男がやはり彼に微笑みかけていた。
韓信は、にわかに起ききれずに、声だけを挙げた。
「張兄、、、麗花、、、!」
韓信は、ようやく起き上がった。
河畔には、張良子房と彼の従者の陳麗花がいた。
張良は、言った。
「淮陰も、久しぶりだ、、、城市は変わっていないが、船の往来は途絶えてしまった。この時代では、無理もない。」
彼はそう言って、朝の光にきらめく淮水を眺めた。
張良は、言った。
「あんなに売買をしていた商人たちは、すっかりどこかに行ってしまった。土地を持たない彼らは、多くが今や兵卒となって軍に潜り込んでいる。戦うことで、生計を立てているのだ。それが、天下をますます苦しめることになるのに、、、」
彼は、大河の流れをじっと見つめていた。
彼の中にあるものは、自責の念であった。
秦を倒すために命を賭けた、彼の人生。
彼の倒秦の執念は、ついに結果を出した。
彼が手を貸した楚が、秦を亡ぼしたのであった。
しかし、その後に残ったものは、荒廃であった。
もちろん、彼一人の責任ではない。秦が天下を一つにまとめ、その秦があまりにも天下に怨みを買いすぎたことが、反動の大波となってしまった。いわば、時代の責任であった。波は秦を打ち砕き、あまりにも多くの命を奪った。その破壊の悲惨さをやり過ごせるほどに、張良は鈍感ではありえなかった。
川面で、大きな魚が一匹跳ねた。
張良は、言った。
「いつか、この川のように穏やかに流れる時代が来るはずだ。いや、来させなければならない。私は、逃げるわけにはいかない。」
彼は、韓信の方に向き直った。
それから、彼に言った。
「― 韓子。あなたも、逃げてはならない。私たちは、あなたを連れ出すためにここに来たのです。私にはできないことが、あなたにはきっとできる、、、項王を、倒すのです!」
張良は、韓信に自分が来た目的を告げた。
韓信は、驚いて張良を見た。
張良は、言った。
「天下は、再び戦乱となります。もし治める者がいなければ、今よりももっと恐ろしい悲惨がやって来るでしょう。項王は、天下を治めることができません。だから、速やかに倒さなければならない。天下のために、項王を除くこと、、、今の私は、それだけに心を砕いているのです。」
彼は、ここまで言った後で、疲れた表情を見せた。彼の体は、さらに弱まっていた。麗花が、主人の体を支えた。張良は重い体を引きずりながら、韓信の才能を今度こそ発揮させようとこの淮陰にやって来たのであった。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章