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十一 孤ならずとも(1)

(カテゴリ:死生の章

張良と韓信は、城市の商家で相対していた。張良が昔商人に身をやつしていた頃に、この商家の者と知己であった。

「この家は、無事だったようですな、、、あの頃、私は韓簫子と号していた。」
張良は、いくぶん体調も落ち着いて、言った。
韓信は、答えた。
「懐かしい、時代です。」
二人は、多くのことを思い出した。韓信はこの淮陰で韓簫子と名乗っていた張良と出合い、彼に下邳の城市に誘われ、そこで黄生に会って彼の下で兵法を学んだ。今から思い返せば、あの時代は秦の末期であった。二人が始めて会って以来今までに経った歳月は七年ほどであったが、その間に彼らも世界もあまりにも変わってしまった。
張良は、言った。
「私は、今下邳にいます。」
韓信は、不審がった。
「張兄、、、あなたは、韓王国の申徒ではないのですか。韓王ならば、もう故国に戻っているはずでは?」
張良は、頭(かぶり)を振った。
「韓王は、彭城に抑留されたままです。おそらく、殺されるでしょう。」
韓信は、眉をひそめた。
韓王成は、劉邦と共に行動していたことを責められて、彭城に留め置かれていた。それは、范増たちの策であった。韓王国の占めるべき土地は、武関から中原に抜ける道を劉邦に用意していた。そこに劉邦と相通ずるおそれのある諸侯を置くことは、范増ら項王の参謀にとって断じて許すべきものではなかった。それで、理由を付けて家臣ともども彭城に留め置き、ついには王から落として候にしてしまった。
張良は、言った。
「それで私は、身体の不調を理由に下邳に引き込んだのです。彭城に留め置かれては、范増らの監視が厳しくて何もすることができません。私は下邳から韓王を救うためにいろいろと画策していますが、范増らは決して許そうとしません。」
それほどまでに、項王を守る亜父范増の劉邦への疑心は、確信に至っていた。漢王劉邦は、最も油断のならない外様の諸侯であった。だがここまで劉邦に警戒しなければならないのは、楚帝国はもっと各地に火種を抱えているからであった。小さな火をもみ消して回っている間に、大きな火が挙がることを防がなければならない。范増の考えは、そうであった。だが、彼がそのように考えなければならなかったことは、項王の帝国があまりにも不安定なものだったからであった。
張良は、関中を去る前に漢王に献策したことを、言った。
「私は、漢中に赴く漢王を途中まで見送りました。それで漢王に、漢中から関中へつながる桟道を焼き払うように進言したのです― 項王への帰順のしるしとして、最も印象深いことを為しておくべきだと。」
関中と漢中の二つの盆地を結ぶ街道は、限られている。その間に横たわる、秦嶺山脈の険しさのためであった。中でも秦が開削した桟道は、峻厳な渓流に沿って道なきところに穿った最短の通路であった。岩肌に延々と材木を打ち込んで、その上に板を敷いて道は作られていた。秦の土木力ならではの、大工事であった。
張良は、漢王と別れる際に、この桟道を焼き落としてしまうように薦めた。最も重要な街道を自ら封じることで、項王に諂う態度を示すべきだと、彼は漢王に言った。
「彼が生き残るためには、それしかなかったのです。項王ではない者を、今は残しておかなければならない。それで、桟道は焼かれました。しかしこれでも、范増らの疑いが解けたわけではありません。」
張良は、言った。
韓信は、張良に聞いた。
「つまり、張兄は漢王が項王に取って代わるべきだと、思われているのですね?」
張良は、答えた。
「いや。もし項王が、天下を治める君主でありえるならば、私は何も言うまい。だが、、、咸陽の破壊を見よ。」
彼は、咸陽で項王が命じた大破壊の樣を、つぶさに語った。張良は、項王がどのような人物であるのかを、鴻門の会以来じっと注視して来た。それで、彼は知った。
「項王はもう、誰も見ていない。そして誰も、彼に付いていけない。韓子。あなたは長らく彼の側に従っていたから、分かるでしょう。彼は、確かに不世出の英雄だ。始皇帝に、項王。中国は、二人の英雄を続け様に得てしまった。もし西の世界ならば、項王は現人神として祀られ、君臨することができるだろう。しかしこの東の世界に、英雄はいらないのだ。項王は、始皇帝と同じくやがて転ばざるをえない。諸侯は、すでに項王に反乱しようとしています。項王は、それを力で叩くしかありえません。また、戦乱の繰り返しとなるのです。だが、もうこの天下には戦乱を続けるだけの余力は残っていないのです。漢王は凡庸ですが、今は一番大きな勢力となり得るところに座っている。その他の諸侯は、問題にならない。私が今も漢王を支持するのは、ただ、、、ただそれだけのことです。」
張良は、再び息を荒くした。麗花が、彼の背中を撫ぜた。韓信は、寄り添って生きる彼ら二人の姿が、何とも麗しく見えた。
韓信は、張良が自分に期待していることが、分かった。
(劉邦を、勝たせてやってくれ、、、)
これが、張良の韓信への願いであった。張良は、韓信の項王の軍中にいた頃の事績もすでに知っていた。彼の名は、項王の名声に隠れて全く知れ渡っていない。だが、項王に策を与えて戦に勝たせたのは、韓信その人であった。張良は、韓信にはやはり誰にも勝る戦場での才があることを、今はもう確信していた。それは、残念ながら張良自身には、ついに得られなかったものであった。
張良は、言った。
「もう、私はこのような体で、戦を指揮することすらできない、、、韓子。君の、心次第だ。君は、天下に必要な男なのだ。奮い立て。奮い立って、おくれ!」
張良は、激しく咳き込んで、それからふらりとした。
「ああ、公子。お熱が、、、」
麗花が、彼を支えた。
韓信は、その後何も言うことがなかった。
張良は熱を出して倒れ、数日寝込んでいた。
やっと体調が戻った後、彼は麗花と共に船で下邳に戻って行った。
「韓子、、、下邳で待っているぞ。」
張良は、見送る韓信に、声を掛けた。
彼は、結局答えることができなかった。
麗花が、韓信に深く頭を下げた。韓信は、頭を垂れた。
それから船は、川を遡って行った。
船影を見送りながら韓信は、どこまでも共に向かう彼ら主従が、少し羨ましく思った。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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