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十一 孤ならずとも(2)

(カテゴリ:死生の章

夏は、暦と共に日が長く、高くなっていく。

韓信は、まだ淮陰にいた。
張良の言葉を聞いても、彼はいまだに動けなかった。
今日も、彼は郊外の野良で腰を屈めて働いていた。
(戦、、、戦、、、また戦が、続くのか、、、)
彼は、刈り取りの手を動かすごとに、戦、戦とつぶやいた。
刈り取る麦は、手にずしりと重い。今年の収量は、例年よりも少なかった。淮陰からも多くの若者が兵卒に取られているので、人手が足りなかった。それでも、戦場となって全滅となった地域よりは、幸いであった。
郷里に対しては、項王の名で徴発の命が下っていた。秦と、何ら変わりがなかった。結局、戦をするのである。斉の政情が、早くも不穏となっていた。田栄は、膠東に引き込むことを拒絶して、新しい斉王の田都に戦を挑んだ。田都はたちまちに敗れ、楚に逃げ込んだ。田栄は、この頃同じく項王に対して憤懣やる方ない陳餘と連絡を取り合い、共に蜂起する策略を練っていた。斉で上がった火の手は、趙にも飛び火しようとしていた。西楚の覇王は、これを必ず挫かなければならなかった。
(戦、、、戦、、、戦、、、戦を防ぐために、戦をする、、、)
彼は、鎌で穂を芸(くさぎ)りながら、心で繰り返した。だが、彼の戦場への想像力は、ふつりと切れたままであった。
(― 阿梅は、まだ立ち直れないんだろうか?)
彼の思いは、戦に振り回される側の者に向かって行った。
林家の阿梅は、時代の不幸に巻き込まれて、寡婦となってしまった。
阿梅は、苦しむように泣いた。
内気な彼女にとって、あまりに無残な事件であった。
夫が死ねば、寝食も惜しんで泣く。
それが、家族において仕える者の道であった。
嘘でも泣かなければ、この時代の女と子供は生きていけない。だから、家族は嘘のように泣く。嘘でも、泣くのが絶対の掟であった。この嘘泣きを、儒家どもは哭泣(おおなき)の礼として制度化する。家長が死ねば家族は身が細るほどに泣き悲しみ、天子が崩御すれば百官はおろか億兆の万民に至るまで嘆き悲しまなければならない。全くの、嘘泣きの薦めであった。
だが阿梅は、本当のように泣いた。本当のように泣き通した阿梅は、家の者たちからも殊勝すぎるほどに見えた。家の者たちは彼女のことをやはり良い娘であったと納得したが、いっぽう彼女は人が死んでわずかの間に日常に戻っていった周囲の人々が、信じられなかった。
韓信は、淮陰に戻って来て、阿梅の不幸を聞いた。
阿梅はまだ若いため、実家の林家に戻っていた。だが、家の外に出ることはなかった。韓信は、彼女に会うことができなかった。阿梅と媼さんに見送られて淮陰を出て、今や敗残して戻って来た。そんな韓信に、今の彼女に伝えるべき言葉などは、ありえなかった。
日は、ようやく西に傾き始めた。
だがこの日の韓信は、この頃になると野良から消えていた。
彼は、淮陰の近くにある、一番高い丘の上に現れた。
そこには、彼の母親と兄弟姉妹の墓が盛られていた。
夏の風が、丘の草原を吹き抜けた。心地良い空気を、韓信は吸った。
彼は、淮陰に戻ってからこの丘の墓にまた来るようになった。崩れかけていた墓の土を、手で盛り直した。農作業に疲れると、時々ここに来て淮水の流れを見下した。だが張良がやって来てから後は、毎日午後になるとこの丘に足を運んでばかりであった。
「また、来てしまったな、、、」
韓信は、自分の頭をこつりと打った。何という、怠け者であるか。最近は毎日のように、農作業を放り出してここに来ている。彼の体は、農夫の生活などまるで拒んでいるかのようであった。
彼は、丘を上り詰めて、眼下の淮水を見た。
淮水は、いつものように見えない彼方から流れ来て、悠然と空と溶け合うように流れ去っていた。この風景だけは、彼が淮陰を去った頃と何も変わっていなかった。変わったのは、人間の世界だけであった。しかも、あまりにも大きく変わってしまった。そして、その変化はいまだに終わりに辿り着いていない。いったいいつまで続くのだろうか、と考えたならば、それは他人事のように考えているのであった。韓信は、まるで他人事のように考えてしまう今の自分が、口惜しかった。
「あの項王と戦えというのか、張兄、、、だが私には、そんな才はありませんよ、、、その証拠に、私の中には何も沸き上がって来ません。私は、ただの敗残者です。」
彼は、川の流れに背を向けた。
振り返った向うに、彼の家族の墓があった。
そのとき。
韓信は、昨日と違う風景に気付いた。
盛り土の上に、夏の花があった。この丘の上は風が強くて吹き飛ばされるので、韓信は花を添えることはしない。
花を添えたその人は、横にいた。
「阿梅、、、阿梅じゃ、ないか。」
韓信は、淮陰に戻って初めて彼女の顔を見た。
彼女は、何とも美しい女に変わっていた。もはや、少女ではない。
阿梅は、言った。
「― あなたが毎日ここに来ていると、おば上が申しておりました。」
そう言って、彼女は韓信に向けてにっこりと笑い掛けた。
韓信は、彼女の笑顔を見て、心が救われた気分になった。だが、次の瞬間に自分のことを思って、頭を垂れた。
韓信は、言った。
「― あまりにも、変わってしまった、、、何もかも。」
阿梅は、言った。
「すっかり、泣いてしまいました。死んだあの人のために、せめて泣こうと思いました。それから、悲しい目に会っている皆のためにも、泣こうと思いました。全ての人の何もかもの悲しさを受け止めようと思ったら、泣いて、泣いて、涙が止まりませんでした― もう、今の私は、泣き過ぎてしまったようです。」
阿梅は、韓信を見た。
彼女の目は、韓信の表情を読み取った。彼の中にも、悲しみが見えた。それで、彼女は彼が逃げ戻った理由が大方分かったような気がした。
阿梅は、言った。
「― 実は、怖かったのです。あなたが淮陰に戻って来て、もう心が死んでしまっているのではないかと。今日あなたに会うまで、あなたを見るのが、私は怖かった。でも、、、今は、分かりました。あなたの目は、変わらず輝いています。」
彼女は、彼を責めるよりも彼を心から喜んだ。彼女こそ、韓信のことを喜んでくれるこの世で数少ない人のうちであった。
韓信は、優しい顔になった。
阿梅は、彼に言った。
「あなたは、迷っているのですね、、、だから、ここに来ている。」
韓信は、彼女に言った。
「阿梅。あなたが、言って欲しい、、、私は、どうすればいい?」
阿梅は、すぐに答えた。
「あなたにしかできないことを、見せればいいんですよ。私は、あなたの輝きを信じています。」
阿梅は、今は韓信に輝いてほしいと、心から願った。彼はそれができる人だと、彼女は今もますます信じるようになっていた。彼に足りないのは、後ろから押してあげる心からの声。ただ、それだけであった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章