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十二 士人の刻(1)

(カテゴリ:死生の章

日もすでに西に落ち始めて、二人は丘から降りていった。

韓信は、彼女の前を二、三歩先に歩こうとした。
阿梅が、彼の背中に近づこうとした。
韓信は、もう一歩前に出て、苦笑した。
「、、、だめですよ!」
阿梅は、彼に言った。
「どうして、ですか?」
韓信は、言った。
「見られると、まずい、、、」
まだ夫が死んでから間もない、寡婦であった。世間に認められもしないのに、他の男と親しくするなどは、世の人の許すところではなかった。
阿梅は、言った。
「韓さん。あなたは、正直すぎるんだ―」
そう言って、彼の腕に手を伸ばした。
彼女は、韓信の手を握った。
韓信は、どきりとした。優しい表情に似合わない、ざらついた手であった。小さい頃から真面目に家の労働をこなして来た彼女の手は、農婦のようであった。
阿梅は、彼の手を握り締めて、続けた。
「― だから、損をしてばかりなんですよ。もしあなたが世の中にいっぱいいる大人(たいじん)たちみたいに力を持っていたら、こんなことぐらい人は黙って見過ごすしかありません。あなたは、どこまでも上に行けるはずの人なのよ。行けないのは、あなたが正直すぎるから、、、」
韓信は、答えた。手は、もはやそのままであった。
「私は、あなたや林媼さんを守りたい。戦って守れるものなら、守りたいのです。けれども、この淮陰にいては、私は何もできません。私は、この地を治める項王と共に生きることは、できないのです、、、」
阿梅は、握った手に加えて、もう片腕を彼に添えた。
韓信は、歩く足を留めた。
阿梅は、言った。
「― 分かっていますよ。あなたは、今日していたように、大きな川の流れを上から眺めて生きる人です。だけどあなたは、優しい人です。小さな情を、棄てきれない。」
韓信は、彼女に言った。
「だから、つまらない奴なのです。」
阿梅は、言った。
「いえ。韓さんは、だからきっと大きなことができるのです。」
彼女の体温まで、韓信の背中に伝わって来た。長年彼女と会ってきたが、ここまで近づいたのは実に始めてであった。
阿梅は、言った。
「私に、言ってください。あなたは、淮陰から出た後にどう進むの?」
日は、間もなく落ちようとしていた。まだ、二人は城市にたどり着くことができなかった。
韓信は、立ち止まった。
歩くことも止めて、彼は思い沈んだ。
それから、戦場を長らく駆け回り、諸侯や将軍を知った彼の心中の確信が、言葉に出た。
「― 兵法で、私を越える者は、今の世にいない。今の世に項王を倒せる者は、私だけだ。項王は、倒さなければならない。私は、項王を倒しに行く。」
そう言ったとき、韓信は彼女を振り返らなかった。
彼女は、彼の言葉を聞いたとき、少し震えた。
それから、彼女は静かに泣き始めた。
阿梅の泣く声を聞いて、韓信はようやく振り返った。
彼は、言った。
「すまない。私は、やはり戦の人間だ。あなたに言われて考え直したら、結局あなたを悲しませてしまった。あなたがあんなに悲しんだのに、私はまた戦をしてしまう、、、だが、それは為さねばならないんだ。許してほしい。」
阿梅は、泣きながら、しかし首を横に振った。
「韓さん。私は、あなたが自分の道を進めない方が、もっともっと悲しいの、、、」
彼女は、泣き続けた。心優しい彼女にとって、今の時代はあまりにも辛すぎた。だが、今の彼女に唯一残された人もまた、時代の士であった。戦をしなければならぬ、士人であった。
二人は、城市に続く道で立ち尽くしていた。ようやく夏の長い日は終わり、爽やかな宵が訪れていた。

その夜、阿梅を送って、韓信は久しぶりに林媼さんの家にやって来た。
韓信は、媼さんに言った。
「私は、下邳に行きます。」
媼さんは、言った。
「どうしても、一人で行くのかい?」
韓信は、答えた。
「ええ。」
媼さんは、彼に言った。
「阿梅と一緒に行っても、いいんだよ、、、私が、許す。人の目など、気にするな。」
韓信は、首を横に振った。
「ここから後は、私は命を賭けます。これまで私は、火の中に手を突っ込む前に逃げていました。これからは、もう逃げません。私は、あなたたちの声に支えられて、しかし単りでなければ厳しい道を突破できません。」
それが、韓信の結論であった。彼は、己を天下に投げ込もうとしていた。
媼さんは、彼の言葉を受け取るより他はなかった。
「― 王孫。あんたの思う通りにしな。今度こそあんたは、何かを掴むだろうよ。私たちは、あんたを待っている。」
韓信は、媼さんに言った。
「そしてもし、私が成功することができれば、必ず媼さんと阿梅を迎えに来ます。」
媼さんもまた、泣き始めた。韓信は、彼女を優しくいたわった。彼が旅立つというのに、肉を出すこともできなかった。苦しく、悲しい時代であった。ただ、前に進む人を見送ることができることだけが、抑えつけられている人たちにとってのわずかな喜びであった。

          

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第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
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第十章 垓下の章



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