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十二 士人の刻(2)

(カテゴリ:死生の章

韓信は、まだ明けぬ夜のうちに、林媼さんの家を出た。

「再見(ではまた)、、、!」
彼は、城下に向かおうとした。船は、張良の知己である商家の者が、用意してくれた。
韓信が、媼さんの住む里(り)の門に差し掛かったとき。
まだ暗い中に、人影が見えた。
「― 阿梅。」
韓信は、彼女に気付かれずに夜のうちに出ようとした。だが、彼女は気付いていた。
阿梅は、韓信に言った。
「― お一人で、行かれるのですね?」
韓信は、静かに答えた。
「はい。」
彼女は、言った。
「連れ添う者がいると、男は鈍ってしまう、、、そういうもの、なのでしょうか?」
阿梅は、男とは意外に弱い者であることに、成長して気付くようになった。誰かが心にいないと、男は奮起することができない。なのに、いざ手の届くところに親しい者がいると、とたんに臆病になってしまう。男が強くなるためには、愛されることが必要であった。だが、男が見果てぬ夢を追いかけるためには、愛を掴んで幸福となってはならなかった。
韓信は、彼女に言った。
「私は、強者ではありません。項王のように、心のままに進むことなど、できません。自分を叩いて、前に進めなければならないのです、、、私を、行かせてください。」
阿梅は、彼の言葉に静かにうなずいた。
「私たちは、いつもあなたを見守っていますよ。」
それから彼の胸に寄り掛かって、顔を埋めた。
「― 行きなさい、、、韓信。」
阿梅は、彼の胸の中で、囁いた。
韓信は、ためらいながら、軽く軽く腕を彼女に添えた。
腕には力が入っていたが、その位置は抱きしめることもなく、触れるようであった。
このまま強く抱きしめてしまえば、きっとここに留まってしまうであろう。
韓信は、そう思った。
阿梅が、静かに泣いた。
二人は、赤く染まり始めた空気に包まれて、そのまま刻(とき)を過ごした。
それは本当にわずかの間であったが、彼の心は清らかに染まっていった。

下邳に着いた韓信を、張良は喜びに溢れて迎えた。
「よくぞ、心を決めてくれた、、、韓子!」
張良は、下邳に居ながら諸国の情勢をつぶさに読み取っていた。
彼は、韓信に言った。
「田栄は、陳餘に加えて昌邑の彭越にも手を伸ばしている。この彭越は盗賊の頭で、その勢力はすでに諸侯に匹敵している。彼に何の地位も与えなかった項王は、痛い目を見るでしょう。」
韓信は、呆れた声で言った。
「項王に弾かれた者どもが、宰相から盗賊まで手を取り合って復讐ですか、、、彼らには、何の経綸もない。」
張良は、言った。
「もとより彼らは、天下をどうしようなどという展望など、何一つ持っていません。しかし、彼らの力はいずれも侮り難いものがあります。項王は、彼らを自らの武力で亡ぼそうとするでしょう。彼の頼りは、今や武力しかないのですから。」
陳麗花が、熱い汁を杯に入れて、持って来た。
葛の根を溶かした、汁であった。
張良が、言った。
「― 五穀が身体にこたえる私は、最近これを飲用しています。」
彼はそう言って、ゆっくりと汁を啜った。張良は、最近このような養生術も調べるようになった。できるだけ長く、自分の命を保たせるためであった。彼は、今死ぬわけにはいかなかった。
張良は、韓信に言った。
「私は、この下邳に留まらなければならない。まだ韓王を、見捨てるわけにはいかない。韓子よ。聞かせてくれ。あなたは、どう進もうと考えている?」
韓信は、自分にもすすめられた葛根の汁を、ぐいと口に含んだ。懐かしい、味がした。小さい頃に食う物がなくて、野で草を掘ってはこの汁ばかりを飲んでいたことがあった。母も兄弟もいた、遠い時代が韓信の頭にふと甦った。
韓信は目を閉じて、飲み干した湯の余韻に浸っていた。
それから、目を開けて答えた。
「もちろん、漢王のところに行きます。漢王の軍は、精強です、、、その上、将軍に人材を欠いています。」
韓信は、莞爾(にこり)とした。
彼は、自分の才を最も発揮できる場所は、すでに漢軍と見据えていた。
張良は、我が意を得たりと喜んだ。
彼は、韓信に言った。
「丞相の蕭何を、頼りたまえ、、、彼は、漢王の信頼が絶大だ。その上、地位あっても人を容れることができる。」
蕭何は、新たに起った漢王国で、丞相の職位に就いていた。蕭何は、王国の家臣団で最高職となったのであった。その丞相に信頼できる人物が就いていることは、漢王国にとって幸運なことであった。
韓信は、張良の言葉を有り難く聞いた。
彼は、漢王について感想を述べた。
「彭城で漢王に初めて会って以来、私は彼のことを確かに人物だと思っています。それでも、正直申しまして、私はあの遊び人がいまだに心から好きになれません。だが、彼の配下にはよき人間がこんなにも多い― それが、不思議なことです。私が漢王を選んだのは、彼の下に集まる逸材たちを買ってのことなのです。」
張良は、彼の感想を聞いて、微笑んで言った。
「そして、あなたもこれから行こうとしている。逸材を受け取ることができる人物は、何とも天下に数少ないのです。それだけ、目の曇った人間が人の上に立ち過ぎているという、わけなのですよ、、、」

          

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第五章 楚滅秦の章


           
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第八章 背水の章


           
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