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十三 傲然無名(1)

(カテゴリ:死生の章

こうして、韓信は漢王に帰属するために、漢中に赴いた。

漢中の都は。南鄭。山深い僻地にあった、小拠点であった。北の関中から通ずる街道が全てこの城市に集まって、南に広がる巴蜀へと繋っていく。つまり、交通の要地であった。だが、秦以外に生まれた他国人であれば、この城市から南に行ったことなどは、生涯を通じてまずありえなかった。遠い楚地に生まれた人間たちにとって漢中巴蜀などは、荒っぽい山容、押し寄せる濃霧、底に溜まるような夏の湿気など、まるで異世界のようであった。
南鄭に都させられた漢王の宮廷は、淋しかった。桟道も焼き払ってしまい、ここにあと半年も留まっていれば、もう中国のことを忘れてしまいそうであった。やがて手足に苔が生えて、いつか草木と化してしまうかもしれない。植物と化すことを嫌ったのであろうか、人間がずいぶん減ったような気がした。印象の通り、兵卒はおろか将軍や官吏に至るまで、逃亡者は後を絶たなかった。漢王劉邦の運気は、衰退の極致にあった。

南鄭に漢王が宮廷を構えたのは、夏の始めの頃であった。
その夏が終わろうとしていた、ある日のこと。
宮廷の前の広場で、法に触れた属吏どもの斬罪が行なわれていた。
罪を犯したのはわずかに二、三名であったが、同職の者全員が連座の罪を与えられた。違反者を正しく上に報告しなかった、罪であった。だが連座の制度は、秦法のそれであった。
この頃すでに漢王国は、楚の法を棄てて秦の法を継承していた。丞相の蕭何が秦の官吏たちを収めて秦の制度を吸収した、結果であった。封じられた土地の法でなければ、国を継ぐことはできない。蕭何は、朝廷を開くに当って改革を断行した。
「法三章を約束した漢王が、どうして秦の法を継ぐ必要があるのか―!」
将軍百官の中から、不満が噴出した。
しかし、丞相は楚人流の甘い組織管理に慣れた彼らの苦情を、一切聞かなかった。
「法三章は、条文の数にあらず。民治のための、精神である。すでに民を疲弊させる不要な法は、全て撤廃した。しかし、諸官軍制について法がなくして国が保たれるであろうか。諸君は、民を治める責務を持った者たちである。諸君について、無法の放縦は許されない。」
丞相は、衰運の中にあっても備えを怠らないことが肝心であると、固く信じていた。それが、漢中に押し込められて腐っている余人と彼が違う点であった。
広場に連座の者どもが、縄を受けて並べられた。
連敖(れんごう)という役職の、官吏どもであった。
右から一人ずつ引き立てられて、斬に処せられていった。
十三人が斬られ、十四人目に至った。
十四人目は、ひときわ背の高い男であった。
斬られて行く官吏たちは、歯の根も合わぬほどに震えていた。妙な仲間意識を出して大して親しくもない同僚の罪を隠したことを、今はひたすらに後悔していた。
だがこの十四人目の男だけは、平然としていた。
(なんだ、こいつは、、、?)
刀を持つ刑吏が、いぶかしがった。
男は、刑吏に引き立てられ、上官の前に出された。
上官は、一人一人に罪を宣告して、刑吏に斬を命ずる役目であった。
上官もまた、男を見て不審に思った。連敖などという官吏に似合わず、武将のように体格がよい。うつむいたままで、彼に顔は見せていなかった。しかし、見るからに奇妙な空気を周囲に漂わせていた。彼のような高位にいる者は、群がる人間の山から人材を見分けることに特に気を遣うべきであった。この時代で人の上に立つ者の責務とは、人材を見出して自分の役に立てることであった。もとは卑賤な出自の彼も、今や高位なる者の責務に忠実でありたいと、常々願うようになっていた。その彼の心に、目の前の男は少し気になった。だが、そのままでは見過ごすばかりであった。
そのとき。
男が、うつむいたままで声を投げ掛けた。
「― 滕公!」
男は、上官の封号を叫んだ。
名指しされた滕公すなわち夏候嬰は、びくりとした。
男は、言葉を続けた。
「― あなたの上(しょう)は、天下を欲しておられないのか?」
夏候嬰は、片々たる官吏が投げ掛けた驚くべき高言に、目を丸くした。
彼は、怒気を含んで男に返した。
「卑賤なる、属吏めがっ、、、うぬごときに、天下の何が分かる!」
しかし男は、はっ!と一笑した。
男は、一喝した。
「ならば何為(なにゆえ)、壮士を斬るか!」
そう言って、男はく、く、く、と笑い始めた。
「斬れっ!」
夏候嬰が、叫んだ。
「待てっ!」
男が、すぐさまそれ以上の大声で制した。
男は、ようやく顔を挙げた。
「― 彭城で、お目にかかって以来ですな。夏候県吏どの、、、」
男は、沛時代の官職で、呼び掛けた。
夏候嬰は、その青年の顔に、見覚えがあった。
「お前は、、、韓信。淮陰の、韓信!」
韓信は、いまだ縛に就いたままで、にこやかに言った。
「思わず連座して斬られそうになりましたが、丁度よい機会でした。滕公、私は漢を勝たせるために、ここにやって来ました。どうか、あなたのご裁量によりこの縛を解いてください。私が漢の宝であることを、これからお見せするために―」
縛を解かれた彼は、懐から一枚の書簡を取り出して夏候嬰に見せた。
夏候嬰は、読んで飛び上がった。
「これは、張子房の推薦状、、、お前はどうして、これを先に見せなかった?」
韓信は、笑って答えた。
「組織を知るためには、いったん末の末から見上げなければ分かりません。漢は官軍の制を一変させましたが、すでによく動いています。丞相の指導の、たまものです。すでに用意は整っていると、観察できました。」

          

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第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
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第十章 垓下の章



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