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十三 傲然無名(2)

(カテゴリ:死生の章

組織の中に新参の者が転がり込んだとき、それを力とすることができるか。

勝ち上がりたいと望んでいる組織だけが、正しく受け入れることができるだろう。勝ち誇って上下が慢心しているならば、いつか新しい時代の力を受け取ることができなくなる。また負けた地位に諦めて切っている組織ならば、もっと悪い。有為の者は、爛れた空気を嫌うものだ。さっさと逃げて行き、二度と戻ってこないだろう。
夏候嬰は、韓信を手元に呼び寄せて、彼と語り合った。
夏候嬰は、彼を大いに喜んだ。
夏候嬰は、手を叩いて彼に言った。
「― さすがだ。さすがに、張子房が見込んだだけの男だ。現在、わが国は衰退の極致にある。だが、君の言うとおり、こんなところでは終わるべきでないし、終わってたまるものか。韓信、これから漢のために、どうか力を貸してくれ、、、!」
韓信はこうして漢王の側近の男に賞賛されたが、彼は少しも喜んでいなかった。
彼の目に写った夏候嬰は、しょせん凡将であった。漢王に忠実で、忠実なために戦場でよく働く。だが、見えないものを見通す才覚は、彼にはない。時代を創る想像力は、この大官に備わっていなかった。
韓信は、ずばりと夏候嬰に申し出た。
「あなたから、丞相に会わせてください。漢臣で私が語りたいのは、丞相だけですので―」
言われた夏候嬰は、瞬間顔をこわばらせた。
だが韓信は、自信に満ちた目で彼に対していた。
夏候嬰は、彼の伸ばした背の姿に、気圧(けお)された。彼の背後から、恐ろしく大きなものが立ち昇って来るかのような錯覚に陥った。
夏候嬰は、言った。
「わかった。私から、丞相に会わせよう―」

丞相府は、簡素なものであった。県庁はおろか地方の豪商の屋敷にすら及ばない、小さな役所であった。
丞相の蕭何は、いっこうに気にしなかった。
彼は、城市の大きな建物を咸陽から押収した秦の文書類を収める用途に振り分けてしまった。国の将来の運営のために、蕭何が焼き討ちされた咸陽城の官舎から何とか運び出した記録の数々であった。それらが、今は小さな南鄭の城市の一角に運び込まれていた。
(― 結局、項王はこれを使うことができなかった。)
彼は、東で国を主宰しようとしている項王が、まるで政治を理解していないことを案じた。そして、今や政治を行なうことができる国はこの漢だけであることを、固く信じていた。彼は項王が顧みることもなかった秦の文書類を日々整理しながら、やがて天下が漢を必要とする時が来るだろうことを、信じて疑わなかった。
彼は疑わなかったが、しかし足りないものがあった。
(それは、私には望んでも到底得られぬ、、、)
その足りないものが、丞相蕭何の心を焦燥させていた。
(漢王の家族に、我が妻子までも今は項王の国に留め置かれたままだ。誰もが、沛に戻りたがっている。だが、今の我々では、あの項王には、、、)
彼は、滕公が紹介して来た客と会見するために、室に急いだ。
広くもない室には、客の男が座っていた。
「― 淮陰の、韓信です。丞相には、お初にお目にかかります。」
男は、大きな体を深く折り曲げて平伏した。
「蕭何です。丞相などを、仰せつかっています。」
丞相は、権威などわずかも見せずに、軽く答えた。
韓信は、丞相のまるで県吏のような応対の仕方に、嬉しくなった。
丞相は、韓信に聞いた。
「滕公から聞きましたが、あなたはもと項王の軍に属していたとか。なにゆえ、項王のもとを去ってこの漢に参られましたか?」
韓信は、悪びれずに答えた。
「項王は、天下を治める資格がないからです。よって漢王は、速やかに項王を倒さなければならない。しかし、今の漢では決して項王に勝てません。私が参加して、初めて項王と戦うことができる。私が漢に来たのは、ただそれだけのことです。」
丞相は、韓信の高言に驚いた。
彼は、滕公からこの男があの張良からの推薦状を持参して来たこともまた、聞いていた。確かに、ただ者ではない。だが、突然現れた無名の男にしては、言い過ぎにも程度があるのではなかろうか?
しかし、韓信はあえて強気であった。最も大きな展望を見せて、それを受け止められないようではこの丞相も天下を争う資格などない。彼は、自分の力量に確固たる自信を持っていた。そして、その自信を包み隠すことがなかった。今の漢は、飛躍するための力が必要なのだ。自分にはその力があることを、丞相に分からせなければならない。そしてこの丞相は、それを分からなければならないのであった。
韓信は、丞相に言った。
「― 私だけが、漢王を勝たせることができます。他におりますか?曹参ですか?酈商ですか?夏候嬰ですか?灌嬰ですか?、、、だめです。それらが束になってかかっても、項王にかすり傷ひとつ負わせることが、できません。しょせん彼らは、漢王の勢いに当てられて普通以上の働きをしているだけの、凡人です。凡人が天才の項王に、勝てるわけがありません。沛以来の者で凡人でないのは、漢王と、そして丞相のあなただけです。そして、漢王もあなたも、剣を振るって項王に勝つことは、永久にできません。ゆえに、このままでは漢はおしまいです。」
彼は、漢の諸将を一刀両断にした。
「む、、、」
丞相は、韓信の続け様の高言を、しかし聞くより他はなかった。
韓信は、断言した。漢の将は全てが、凡人であると。
それは、すでに丞相の知るところであった。漢のこれまでの勝利とは、補給を十分に確保して、力量に応じた無理をしない戦に徹したところにあった。それを続けていくうちに状勢が好転に好転して、ついに咸陽を取ることができた。漢の強さは、じつに組織の力と幸運のおかげであった。個々の将の才能は、それほどでもない。
丞相は、戦のことなど何一つ分からなかった。だが、分からないからこそ、今の逆境はこれまでの漢の力だけでは突き抜けられないことを、見通すことができた。だからもし逆境からでも勝利を作り出せる将がどこかにいるのならば、彼はすぐにでも欲しかった。欲しがらなければ、漢の丞相ではなかった。
韓信は、言った。
「項王と戦うことができるのは、戦の天才だけです。そして、その戦の天才とは― この私です。この私は、戦略を立てることができます。その上、戦場でも勝つことができます。この二つを同時に成し遂げられることができるのは、天下で項王と、この私だけです。張良子房にすら、できないことなのです。」
韓信の目は、燃えるがごとくであった。彼は、学兄の張良すら戦場では自分に敵わないことを、拒まなかった。彼は丞相蕭何に向けて、これまで彼が積み重ねて来た実力の程を、述べ立てた。これほどの自己評価をしたのは、彼にとって初めてのことであった。
丞相蕭何は、彼の言葉を黙って聞いていた。
それから、彼に答えた。
「よく分かりました。早速あなたを、漢王に会わせましょう。」

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章