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十四 無双の二人(1)

(カテゴリ:死生の章

蕭何もまた、賭けることができる男であった。

漢は、諸侯の中で最も潜在力に富む国であった。だから、項王と共に並び立つはずがない。やがて項王が漢を亡ぼすか、漢が項王を挫くか。それが、将来の必然であった。対決すべき将来のために有利となるべき機会ならば、決して逃してはならなかった。だが、それが分かっている蕭何には、国を駆り立てて進ませる能力が欠けていた。蕭何は、天下最高の官吏であった。そして、彼の能力は官吏を越えることは決してなかった。項王を挫くために何としても必要なものは― 武力であった。そして、その武力を使うべき戦略家であった。
丞相の蕭何は、韓信という無名の男に、漢臣にはない閃(ひらめ)きの才を感じた。彼は、直ちに使うべしと思った。それで、韓信を伴って、彼を漢王に謁見させたのであった。
しかし、最初の謁見の結果は、はかばかしいものではなかった。
漢王劉邦は、この頃まるで覇気を失っていた。
漢王は、以前にも彭城で会ったことがある青年を見て、喜びもせずに言った。
「やはり、お前は変わった奴だな。こんな山奥まで、わざわざ来るとは、、、どうだ、もう結婚はしたか?」
韓信は、どうでもよい質問をされて、気を損ねて答えなかった。
漢王は、手を振って言った。
「女に縛られるのは、鬱陶しいだけだ。いや、、、鬱陶しいが、それがまた楽しいのかもしれん。俺は本妻から離れられたのが、ここに来たせめてもの慰めよ。韓信。お前も、女に縛られたほうがいいぞ。は、は。はは!」
そのような取り止めもない会話で、ついに謁見は終わってしまった。
この頃、漢王は寵愛する戚氏の腹に種が宿っていた。漢王はそのことに大喜びで、毎日うきうきして暮らしていた。周囲の者たちから見れば、たかが妾一人にうつつを抜かす王の姿は、頽廃としか写らなかった。しかし漢王は、家臣が何も言わないのをよいことに、私事で喜んでばかりであった。
翌日、韓信のところに辞令が送られて来た。


― 治粟都尉に任ず。


韓信は、受け取った辞令の木簡を見るや否や、怒りのあまりに床に叩き付けた。
「この私を、文官と見るか!、、、漢王とは、このような奴であったか!」
治粟都尉とは、財政の出納役であった。優秀な官吏のための役職ではあったが、軍事とは何の関係もない。
丞相蕭何が、韓信のところにやって来た。
韓信は、丞相に怒り散らした。
「この私に、銭を数えさせるのですか!、、、そんな官吏が、漢王はご必要なのですか!、、、漢王は、もう勝つ気がないのですか!」
丞相は、韓信に謝った。
「すまない。漢王は、私が君のことを推薦しても聞いてくれない。最近の漢王は、私事に没頭して政治のことを忘れてしまっている。私も常々案じているのであるが、いかんせん私はあのお方に進言することができないのだ、、、」
韓信は、怒り続けた。
「どうして、進言できないのですか!あなたは、漢の丞相でしょうが!」
丞相は、困った顔をした。
「それは― それは、であるな、、、」
韓信は、問い詰めた。
「、、、どうして!」
丞相は、言葉を濁らせながら、やっとの思いで言った。
「それは、、、私は、あのお方に面と向かうと、厳しい言葉を言えないのだよ。あのお方を前にすると、私は正直言って縛り付けられたようになってしまう。私は、漢王を知り過ぎているのだ。直臣としてまことに情けない限りであるが、私はどうしてもあのお方が逸楽していると、それに水を差す言葉が見つけられないのだ。面目も、ない、、、」
丞相は、下を向いて肩を落とした。
彼は王国の高位に就いているが、今でも沛県の属吏の時代を忘れていなかった。彼は官吏としてまことに有能であったが、人を驚かすような威圧感は持ち合わせていなかった。もと属吏の彼にとって、王国に君臨する丞相の役職は巨大すぎる権力であった。その彼が圧し潰されずに今でも役目をこなしていけるのは、彼が漢王の絶大な庇護を受けているという安心感の、なせるわざであった。だから、丞相は必ず漢王に甘かった。そして、進言できない自分の弱弱しさに、慙愧に耐えなかった。
韓信は、しょげる丞相を見て、彼に怒り散らしたことを後悔した。
だが、治粟都尉などという役職を、受けるわけにはいかなかった。
彼は、丞相に言った。
「王がこんな有り様では、漢にいる意味がありません。私は、去ります。去って、張良子房と共に戦います、、、さらば!」
彼はそう言って、直ちに立ち去ろうとした。
丞相は、あわてて引き止めた。
「待て、、、待ってくれ、韓信!」
韓信は、足を留めずに言った。
「― だが、あなたでは漢王を説得できない。」
丞相は、追いすがって言った。
「そうだ。説得できない、、、だが、君を失っては漢は終わりだ。私にできることならば、何だってしよう!」
韓信は、歩みを止めた。
しばし考えた後、丞相に向き直った。
「むかし、張良子房が言っておりました、

― 説得するためには、聞かざるを得ないように仕向けなければならないのです。

と。寝ている漢王を言葉で説得できないならば、床ごと放り投げてしまいなさい。寝具を剥ぎ取ってしまえば、いやでも目が覚めるでしょうよ。」
そう言って、彼は丞相に耳打ちした。
韓信は、丞相に言った。
「これで目が覚めないようならば、漢王はあなたが仕えている資格など、ありません。」
丞相は、うなずいて承知した。

          

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