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十四 無双の二人(2)

(カテゴリ:死生の章

最近の漢王は、戚氏の虜となっていた。

彼が彼女のことをいかに深く寵愛していたかは、史書のいくつかの記述からも推察することができる。彼が女に打ち込んだ性愛の点だけから言えば、本妻の呂雉をもずっと上回っていたに違いない。
『史記』張丞相列伝の中に、このような逸話が記録されている。
沛出身組の一人でもと郡吏の周昌は、吃(どもり)で口下手であったが剛毅な人となりであった。彼に対しては、あの蕭何や曹参ですら下にも置かぬ応対をしていたという。
その周昌が、あるとき主君が休息している時に、参内して奏上を試みた。
周昌が入ってみると、主君は戚氏を掻き抱いて例の行為の真っ最中であった。
周昌は、慌てて退出しようとした。
主君は、周昌に追いすがって、やにわに彼の首にまたがった。家臣を尻に敷いて、曰く、
「我は、如何(いか)なる主か!」
周昌は、主君の汚い尻の下に置かれて、だがきっぱりと返した。
「陛下は、即ち桀紂の主なり!」
本性淫乱な野人の主君は、周昌のずばりと決め付けた言葉を聞いて、呵呵大笑したという。
君主としての洗練などどこにもない、劉邦の野人ぶりであった。むしろ、あまりに地位が高くなり過ぎて万余の家臣から崇め奉られるようになって、そのような自分が滑稽に見えたのかもしれない。それで、真面目な周昌に対して咄嗟の悪ふざけをして見せた。彼のことを桀紂の主と言い返した周昌は、この後家臣の中で最も憚られるようになったという。
劉邦は自ら前線に立ち、窮地に陥れば身一つで遁走するような、活力に溢れた男であった。それが、漢王に封じられて為すところもなく、山奥に引き込んでいた。今や彼のはけ口は、女子供を愛することに求めるぐらいであった。
漢王は、今日も戚氏の大きくなった腹をさすりさすり、悦に入っていた。
戚氏が、言った。
「― もし、男の子が生まれたら、、、上は、どうしてくださいます?」
漢王は、家臣には聞かせたこともないような甘ったるい声で、答えた。
「― こんな田舎の国、この子にくれてやっても構わんぞ、、、」
彼女は、男からの寵愛の点から見れば、すでに本妻に勝ってしまったと思った。このままこの漢中にいて王を絡め取るのは、容易い。だが、ずいぶん退屈な勝利であった。この男は、もっと大きな富貴をわしづかみにするものと、期待していた。盗賊に捕えられてこの男に贈られた時から、彼女は自分の運命は後戻りなしだと思っていた。少し前のこの男は、確かに輝いていた。それで、彼女は自分に降りかかったひどい禍も、大幸運に転ずるかもしれないとひそかに喜んでいた。彼女は男に心の限り尽くし、男も彼女もどんどんと駆け上がった。
その男が、今やただの中年男に成り下がっていた。
戚氏は、軽く溜息を付いた。
漢王が、気付いて声を掛けた。
「お前、何か憂いがあるのか?言ってみろ、すぐに手配して改めさせるから。」
彼女は、答えた。
「もっと、この子のためには明るい土地がよいです、、、上は、戦の名人なんでしょ?もう、戦わないの?」
漢王は、小さな声で返した。
「勝てれば、なあ、、、」
戚氏は、言った。
「、、、勝ちなさいよ。」
漢王は、答えた。
「そんなに、簡単ではないぞ、、、」
彼はそう言って、また女の腹をさすり始めた。
(あの子に勝てる奴なんか、この世にいるんだろうか?、、、俺は、少なくとも勝てない。俺が勝てないんだから、俺の下の無能どもではなおさらだめだ、、、)
漢王は、項王の若い才能が、羨ましかった。彼は項王のことを、別段怨んでいるわけではなかった。ただ、自分が彼に勝てないことが、残念であった。勝てないことが分かっていて戦うような愚を取らない漢王であったから、今は腐るしかなかった。
本日も、やる気の出ない朝議に出なければならなかった。
漢王は、戚氏を後に残して、朝廷に赴いた。
王の座席にふんぞり返ると、しかし居並ぶ百官の様子が、どうも変であった。
御史大夫が、下を向いてうなだれていた。
漢王は、お前ら何を気鬱な顔をしているのかと、問い質した。
問われた御史大夫が、答えた。
「― 丞相が、逃亡いたしました。」
漢王は、聞いた途端に素っ頓狂な奇声を挙げた。
「ええ―――っ!」
漢王は、あわてふためきながら、冗談か何かであろうと周囲に聞いた。
周囲の者は、言った。
「昨日より、姿を見せなくなりました。丞相府の者が最後に聞いた言葉は、


― これより、客人の後に従う。


というものでありました。実際、昨日一台の馬車が故道を通り過ぎて行ったと、途中の亭より報告がありました、、、」
漢王は、今日久しぶりに群臣の前に出て、ようやく丞相の逃亡を知ったのであった。他にもこれまで将軍や官吏で逃亡した者は大勢いたが、漢王はそれらの報告を聞いても何の感想も言わなかった。それで、側近も至急に報告することを、やめてしまった。
だが、丞相の逃亡を聞いた漢王は、顔色が真っ青になった。
「丞相が、逃げるわけがない。蕭何が、俺を見捨てるはずがない―!」
彼は、地団駄を踏んでわめき立てた。
多くの凡庸どもの中で、丞相の蕭何だけは漢王に過ぎた家臣であった。彼の異能だけは、天下のどの諸侯の家臣を探しても、得られるものではなかった。ただ、その異能は戦場の才ではないために、広く知られていないだけのことであった。漢王だけが、彼に武将すらも上回る最高の評価を与えていた。
「あいつと俺は、豊邑以来共に足りないところを補い合って来た。一身同体の俺たちでは、なかったのか、、、俺は、そこまで人に見捨てられるようになったのか、、、」
漢王は、泣き出した。彼と丞相とは、性格も持ち味も正反対の同郷人であった。だから、共に足りないところを合わせれば最も強くなった。漢王は、丞相との間にどの家臣よりも強い信頼関係があると、思い込んで来た。それが、逃げたという。漢王は、項王に睨みつけられたときなど比較にならないほどに、心が潰れた。彼はこのとき、自分が郷里から遠く離れた土地に放り出されたただの中年男でしかないと、感じてしまった。丞相を失ってしまえば、彼は異郷で漂うばかりであった。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章