«« ”十四 無双の二人(2)” | メインページ | ”十五 大将軍に任ず(1) ”»»


十四 無双の二人(3)

(カテゴリ:死生の章

漢中の拠点である南鄭から北西に向けて、隴西天水方面につながる道が作られている。

秦が開削した、秦嶺を抜けて巴蜀に通じるための街道であった。最も故(ふる)く開かれた道なので、故道と呼ばれる。
より新しく作られた桟道(襃谷道)は、漢中から真北の襃谷(ほうこく)に沿って穿たれている。しかしこの故道は、より西を迂回する径路を取る。やがて東北方面に折れ曲がって現在の宝成鉄路に沿って北進し、関中の西の難関である散関を通って渭水の流れを見る。この故道もまた新しい道に匹敵するほどの、山また山を越す険しい街道であった。関中盆地と漢中とを繋ぐ街道で戦闘のための兵馬を実際に往来させるに耐えるものは、すでに焼き払った桟道とこの故道があるぐらいであった。それほどに秦嶺の山々は、人が通るに難い。
その故道を、わずかな供回りを着けた一台の馬車が駆けていた。
馬車を御す役目の太僕(たいぼく)が、馬に鞭を当てて急ぎに急がせていた。
後ろに乗る、主君の要望であった。
「急げ!、、、夏候嬰、急ぐんだ!まだ、相手はそれほど先に進んでいない。」
主君に言われた夏候嬰は、馬にもう一鞭を食らわせた。
車を曳く馬どもが、さらに足を速めた。
主君の漢王は、丞相の蕭何が逃げたと聞かされたとき、脳天を殴り付けられたように驚いた。丞相は、客人と共に故道を走り去ってしまったと言う。漢王は動転して、直ちに夏候嬰らに命じて丞相に追いすがることに決めた。漢王は、自ら馬車に乗って丞相を引き止めようと思い立ったのであった。
「客人とは、一体誰のことだ、、、あいつを連れて逃げ出すような奴は、叩き斬ってくれるわ!」
漢王は、飛ばしに飛ばす馬車の席で、焦りと怒りに燃え上がっていた。
夏候嬰の御者術は一流のものであったが、いくら彼でも山道に入ってしまうと速く進めるものではない。
夏候嬰が、振り向いて言った。
「― ここから向うは、急いで進めないですな。」
漢王は、怒鳴りつけた。
「急げ!お前は、それでも俺の太僕か!、、、ぼさっとしていたら、爵位を取り上げるぞ!」
夏候嬰は、肩をすくめた。
「急ぎ過ぎると、車では危ないです。馬車が谷に落ちたら、どうなさるのですか、、、それより、馬に乗って進んだほうが速いでしょうよ。」
漢王は、顔をしかめた。
「、、、俺が馬に乗れないことを、知って言っているのか!」
漢王は、馬に乗るのが怖かったのであった。従者に轡(くつわ)を取らせれば安全だと薦められても、彼は獸の背になど乗る気が起らなかった。それで、いつも夏候嬰に馬車を御させていた。
山谷は、日が暮れようとしていた。山陰に差し掛かっていた主従たちの周囲には、すでに闇が忍び寄ろうとしていた。もうこれ以上、道を急ぐことは無理であった。
漢王は、頭を抱えた。
「ああ、、、能無しどもだけが、残される、、、」
主君のぼやきを聞いて、夏候嬰や付いて来た周勃は機嫌を損ねた。しかし主君は、彼らのことなど気にも留めなかった。
街道は、暗くなった。
最後の明るみまでが、消え失せようとしていた。
― そのとき。
遠くから、車輪の音が聞こえて来た。
山に続く街道の向うから、一台の馬車がやって来た。
車と馬の音が、次第に近くなっていった。
薄暮の中に現れた馬車は、漢の公用車に間違いがなかった。
やがて歩みを止めた馬車から、官吏の服を着た一人の人物が、降りて来た。
彼は、漢王の姿を見かけると、拱手して深く拝礼した。
「― 丞相!」
漢王は、座席から飛び上がった。
戻って来た丞相のもとに漢王は駆け付けて、直ちに罵り始めた。
「なんで、逃亡した!、、、なぜ、俺を見捨てたのかっ!答えよ、答えないかっ!」
漢王は、嬉しいやら腹立たしいやらで、取り乱すばかりであった。
丞相は、再び拝礼して、主君に答えた。
「逃亡したのでは、ございません― 逃亡した者を、追いかけておりました。」
漢王は、いぶかしんだ。
「追いかけたぁ?、、、」
丞相は、謹んで答えた。
「はい。国の宝が、逃げようとしたので臣は追いかけました。彼を引き止めなければ、もはや臣は丞相の責務を果たせぬと思いました。」
漢王は、次第に涙声を混ぜ始めた。
「― お前ほどの、国の宝がいるだろうか、、、俺は、信じない。お前は、まさに国士無双だ!」
しかし丞相は、首を横に振った。
「国士無双とは、臣のことではございません。彼の者こそが、国士無双と言うべきです。」
漢王は、今度は怒声を挙げた。
「それは、誰だ!」
丞相は、答えた。
「韓信です。淮陰の、韓信です。」
後ろにいた夏候嬰が、あっと叫んだ。
しかし漢王は、信じなかった。
「韓信?、、、お前は、これまで十人も将軍が逃げたのに、引き止めもしなかった。なのに、あんな若造を追いかけたというのか。韓信が、国士無双?、、、虚言は、いい加減にせんか!」
丞相は、主君の疑心を聞いて、深く嘆いた。
「― ああ!、、、上は、臣の言葉を信じられぬ。これも、臣の不徳であるか、、、」
そう言って、彼はうつむいて静かに泣き始めた。
漢王は、彼の深い嘆きを見て、ついに言葉を失ってしまった。
逃亡したと思った彼は、やはり自分のことを案じてくれていた。
漢王は、それを思い知った。
彼は、丞相の言葉を聞かずして誰の言葉を信ずるべきであろうかと、ついに思い直した。
漢王は、丞相にゆっくりと近づいて、彼の肩に手を当てた。
それから、丞相の肩を掴んで、彼に言った。
「そうか― お前が、漢のためと見込んだのだな。お前を、信じるべきだ。」
丞相は、涙ながらに喜んで、主君にうなずいた。
丞相は、言った。
「― これまで逃亡した将軍などは、枡からあふれて棄てるほどにいます。しかし、韓信はそうではありません。もし上が漢中の王でご満足ならば、韓信など要らないでしょう。しかし、あえて天下を望まれようとなさるならば、韓信の他に計るべき者は見つかりません。ゆえに、臣は彼が逃亡するのを引き止めました。韓信こそ、国士無双の軍略家です。上よ。国の将来をよろしく策したまえ、、、漢中で終わるのか、それとも天下を望むのか。」
漢王は、言った。
「おうよ。俺は、鬱鬱とこの漢中で久しく留まっている気などはない。やがて、東に撃って出るつもりだ。」
丞相は、言った。
「ならば、韓信を信任して、高く用いたまえ。用いれば、彼は漢に留まります。しかし用いなければ、彼は逃げるだけです。」
漢王は、言った。
「よし。将軍に任じよう。」
蕭何は、頭を横に振った。
「将軍では、他の者と同列に過ぎません。もっと大きな職務を、国士無双に与えなさいませ。漢王は、どうしてそれができません?」
漢王は、丞相の言葉を信じた。
彼は、言い切った。
「ならば、大将軍。」
夏候嬰と周勃が、あっと驚いた。
蕭何は、深く拝礼した。
「― 有り難き幸せに、ございます。」

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章