«« ”十四 無双の二人(3)” | メインページ | ”十五 大将軍に任ず(2) ”»»


十五 大将軍に任ず(1)

(カテゴリ:死生の章

丞相が薦める男ならば、間違いがあるはずもない。

漢王は、じつに人を通じて人を鑑(み)ることができる主君であった。この才があらばこそ、彼じしんは何の特技も異才もないにもかかわらず、天下の人材を次々に掴み取ることができた。己の才で人を圧倒する項王とは、人の上に立つ道が違う。漢王は、確かに他人を利用する性癖のある狡(ずる)い人となりであった。しかし、彼は奥底で人間が好きであった。だから、ひとたび信頼できると思った人間の言葉を、どんなに雄弁な弁士の説よりも、またどんなに威勢の良い壮士の高言よりも、尊重することができた。
漢王は、早速韓信と改めて会見したいと丞相に望んだ。
しかし、丞相は言った。
「彼は、この道をさらに奥に進んでいます。」
漢王は、疑った。
「そのまま逃げるんじゃ、ないだろうな?」
丞相は、否定した。
「必ず、戻って来ます。しかし、しばらく経って戻って来るでしょう。その時には、彼に礼をもって対したまえ。上は、いつも人を侮られます。韓信は若年ですが、彼の力を得るためには小児を呼びつける流儀ではいけません。彼を国士として、尊重したまえ。」
丞相が、王に人材を薦めるのにこれほどまでに熱心になったことはなかった。彼は、漢の幕僚の中にあって、沛の同郷人たちと関係が良好とはいえなかった。もと県庁の同僚であった曹参とも、両者の位が上がるに連れて疎遠になってしまった。曹参は、武功を重ねる将軍に成長していった。いっぽう彼は、本来の持ち味である文官の技を磨いていった。両者ともに漢の柱石であったが、今や蕭何の方が丞相となって、曹参より上に立った。曹参が武功もないのに人臣の頂点に立った彼を見て、どのような内心であったのかは知らない。だが、確かに曹参を慕う武将たちは、陰口を叩き合っていた。どうして、蕭何などが曹参より上であるのか?丞相の仕事など、誰でもできることではないか?命を張った曹参らの武勇より尊重されるいわれが、どこにあるだろうか?
丞相は、周囲から聞こえる雑音に対して多くを語ることもなく、自分の仕事に徹していた。漢王の信任だけが、頼りであった。
「私が韓信を大将軍に薦めたと聞こえれば、者どもは私を怒るだろうか?― たぶん、怒るであろうなあ、、、」
蕭何は、これで自分がますます孤立してしまうだろうと、思いを馳せた。しかし、それも大業の前の些事であった。漢が勝てる道を見出すことができれば、自分の労苦も報われるであろうと思った。いや。自分のような世間渡りの下手な人間の進む道は、主君と組織によい結果を挙げさせること以外に、ありそうもない。
数日して、韓信が丞相府に戻って来た。
全て、漢王を動かすために二人で仕組んだことであった。
丞相は、韓信に言った。
「やがてあなたには、大将軍の任が降りるであろう。大命を、待つがよい。」
しかし韓信は、丞相に言った。
「― 丞相。あなたから、もう一つ仕掛けていただけませんか。」
丞相は、何が必要なのか彼に聞いた。
韓信は、言った。
「南鄭の郊外に壇を設け、そこで吉日を選んで斎戒沐浴し、漢王より礼儀に従って大将軍を拝命させていただきたい。」
丞相は、あまりに大仰な儀式を要求する韓信の真意を、測りかねた。
韓信は、丞相にその理由を言った。
「私は、全くの新参者です。漢の組織は、沛出身者が中枢を占めて時として馴れ合いの空気が支配していると、私は観察しています。その空気は、私の手足を縛り付けるものです。どうか最初から、私が彼らの一段上に立つことを彼らに目で分からせる場を設けてください。私が彼らにいかなる妥協も行なわない漢王直任の上司であることを、彼らに示さなければならないのです。」
韓信は、必要なことを必要なこととして語った。
丞相は、彼の言葉をむしろ喜んだ。
「― わかりました。」
それから、韓信はここ数日に自ら見聞して来た結果を、丞相に語った。
「桟道は、張良子房の進言によってすでに焼かれて、通行不能です。今、関中に向けて通ることのできる道は、故道があるのみです。私は、ここ数日故道を踏破して、ここに兵馬を進めることができることを確認して来ました。」
丞相は、疑った。
「軍師は故道もまた破壊したと、わが手元には報告されているが―?」
韓信は、莞爾(にこり)として否定した。
「さすがに、張子房は知者でした。故道の破壊は、見せ掛けだけです。彼は目立つ桟道を徹底的に破壊して相手を油断させ、故道は残しておいたのです。故道から関中に向かう中途には、散関の険があります。項王によって関中に封じられた諸侯は、故道は散関で遮られていると思ってなおさら安心しています。しかし、すでに散関は破ることができると確認できました。」
丞相は、この男がすでに先の先まで読んで情報収集をして来たのを聞いて、ますます彼の話に引き込まれた。
韓信は、言った。
「丞相。軍は、いつ動かすことができるでしょうか?」
丞相は、しばし考えた。
すでに、漢王の封地の戸籍はくまなく掌握されて、今夏の税収は確保できる。漢中・巴・蜀は辺境といえども、兵站源としては十分に役に立った。速やかに関中を奪うことができれば、かつての秦の強盛を受け継ぐことができるであろう。
丞相は、膝を打って答えた。
「、、、秋には!」
韓信は、むしろ驚いた。
「そんなに、早くですか!」
今度は丞相が、韓信に切り出した。
「関中を取れるか取れないかで、漢の国力は決まります。取れるのならば、すぐにでも奪わなければなりません。それとも大将軍は、関中を秋には奪えないとでも、言うのですか?」
韓信は、丞相の言葉に笑った。
「― その言葉をあなたから聞ければ、こんなに心強いことはない!」

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章