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十五 大将軍に任ず(2)

(カテゴリ:死生の章

秋風が吹くにはまだ早い、秋の暦が始まった頃の一日。

南鄭の郊外に、拝将壇が盛り上げて作られた。
漢王に従う将卒たちが、壇下に全て召集されていた。
建成候、曹参。
威武候、周勃。
信成候、酈商。
彼ら武功の臣たちは、漢王国の始まりと共に将軍の職を与えられていた。
臨武候、樊噲。彼は、王の宮門を守護する郎中の職にあった。
昭平候、夏候嬰。彼は太僕として、王の側に仕えて馬車を操った。
さらに郎中の灌嬰、右騎将の傅寛(ふかん)、騎都尉の靳歙(きんきゅう)もいた。
他にすでに将軍に任じられていた者としては、漢王の義弟の廬綰、鴻門で漢王に付き従った紀信、それに薛歐(せつおう)、王吸らの顔ぶれが揃っていた。
本日は、将軍たちの上に大将軍が漢王より拝命されるという。
大将軍を置くということは、これより漢が一致して大きな作戦を行なうべき、出師(すいし)の前触れと受け止められた。将兵たちを統帥すべき将の将は、一体誰に命じられるのであろうか?
「― 曹将軍で、あろうよ。武功では、劣るものがいない。」
「― いや、戦の指揮ならば酈将軍に一日の長があるというものだ。」
兵卒たちは、前日から口々に噂し合った。それぞれが、ひいきの上司を立てて言い争った。
「― 力強さならば、樊郎中という考えもあるぞ。」
「― お前らは何も、分かっていない。大将軍は、王の側近でなくてはならん。ならば、夏候太僕しかありえないだろうが。」
「― 結局誰が立っても、角が立つ。ここは、いちばん当り障りの無い周将軍あたりでは、ないだろうか?、、、」
誰もが、上層部の意図を推測し合った。沛の城市で初めて旗上げした頃とは違って、すでに漢王国は一大組織であった。組織の上層には、功臣たちがひしめいている。これより任じられる大任の職は、きっと彼らの総意で決められるのであろう。ずっと下層の者たちは、そのように思い込んでいた。
拝将壇に、漢の赤旗が立ち並んだ。
鬱鬱とした、漢中の空であった。楚の出身者が大半を占める漢の兵卒たちは、漢中の空の色を嫌った。誰もが、早く東に帰りたがった。これから王は大将軍を任じて、我らをどこに連れて行こうというのであろうか?
壇上に、漢王が現れた。彼は、王として南に面して着座した。
その後ろには、丞相の蕭何が見えた。
夏候嬰と樊噲が、王の近侍として壇上に控えた。任命式の、補佐役であった。
この時点で、彼らは大将軍に任じられる可能性はなくなった。一部の兵卒の予測は、裏切られた。
やがて、壇を登っていく人影が、見え始めた。
人々は、目を凝(こ)らした。
後列の兵卒たちから見ると、甲(よろい)を着けた姿が頭から見え始め、次第に胸の下まで現れていった。
しかし、遠くからでは誰なのかよく分からなかった。
ずいぶんに長身で、ひどく長い剣を腰に提げている。
「客将、、、?」
人々は、彼が曹参でも酈商でもない知らぬ男だと、気付き始めた。
ついに壇上に登り詰めた男は、漢王の前に立った。
男は、王の前でひざまずいて、拝礼した。
夏候嬰が、宣言した。
「漢王より、命ずる― 韓信。なんじを漢の大将軍に任命する!」
聞いた者どもは、驚いたというよりも、起った事情をすぐに理解できなかった。
韓信などという名前は、兵卒はおろか将軍たちすらも、聞いたことがなかった。
命じられた韓信は、漢王の前に進んだ。
樊噲が、漢王に一振りの剣と、大将軍のために作った印綬と符(ふ。割符)を与えた。
韓信は、漢王の手よりそれらを恭しく拝領した。
丞相が、後ろから口を添えた。
「印綬と符を与えたことにより、なんじには漢兵を統帥する大権が王より与えられた。その剣は、王の剣である。なんじの命に背く部下は、王の意志としてその剣で斬ることを、認可されるべし。」
韓信は、答えた。
「必ずや、王のご期待に沿う働きを、ご覧に入れましょう―」
そう言って、平伏した。
漢の者どもにとっては、意外の人事であった。
大将軍に置かれたのは、客将でしかも誰も知らない韓信であった。
漢王は、韓信に言った。
「― 丞相が、お主を推薦したのだ。後で、寡人(それがし)に大将軍の計略を聞かせてもらおうか。」
韓信は、答えた。
「諸将をも交えて、語らせていただきましょうぞ―」
彼は、自信に満ち溢れていた。同席していた夏候嬰は、この青年を大した奴だと思った。同じく同席していた樊噲は、いつもの通り無言であった。檀下にいた曹参や周勃は、王の決断に複雑な心境であった。
韓信と大して年も変わらぬ灌嬰などは、見るからに機嫌を損ねていた。
「あんな奴に、何ができるというのか、、、丞相は、余計なことをする!」
武勇には自信のあった彼は、もと項軍にいながら無名であった大将軍を侮り、小声で不満を漏らした。
しかし大将軍は、諸将の不満に耳を傾けている暇などはなかった。
平伏していた彼を、漢王が立つように誘った。
漢王と韓信は、並んで壇上から遠くの風景を見た。
北には、秦嶺の山々が雲を纏っていた。
漢王は、深い山脈を指差して、韓信に言った。
「― ここを、越えるぞ。」
韓信は、莞爾(にこり)として答えた。
「― 造作も、ないことです。」
漢王は、彼の言葉に喜色を顕わにした。

          

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第五章 楚滅秦の章


           
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