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十六 東伐献策(1)

(カテゴリ:死生の章

任命式の後、漢将たちが一同に朝廷に会した。

大将軍の計略を、承るためであった。
漢王が、来駕して席に着いた。
諸将は、王に威勢良く拝礼して、王の前に車座となって座った。
この頃の漢の朝廷は、まだ野人の群れであった。礼楽の専門家を置かず、宮中の礼儀もずいぶんにぞんざいなものであった。何よりも漢王が、堅苦しい儀式を最も嫌った。それで、武将どもの礼儀は、郷里の農村での礼儀を一歩も越えないものであった。いや、彼らが郷里にいた庶民時代のほうが、まだ行儀が良かったかもしれない。いつの間にか、各人の席には酒食が運ばれていた。軍議の席では、時に王まで交えて飲み食いして騒ぐことすら、しばしばであった。沛の王媼(ばあ)さんや武おばさんの店で漢王が子分たちと管を巻いていた頃と、全く変わるところがなかった。
大将軍が、朝廷に現れた。
諸将は、揃って彼の方を向いた。
大方は、疑いの視線であった。
周勃は、もう酒を数杯呷っていた。軍議の席でまともな進言などした試しがない彼であるが、今日は何か言ってやろうと心に決めたかのようであった。彼は、南門から進んで来る韓信を睨んで、また一杯飲んだ。
韓信の席は、漢王の正面であった。
彼は、諸将を一瞥した。
それから、正面の王に拝礼した。
「大将軍韓信、謹んで王の御前に参りました―」
漢王は、命じた。
「座れ。」
韓信は、言った。
「その、前に―」
彼は、左右の将を見て、断じて言った。
「― 酒食をほおばりながら、何の議論ができるか!飲食している者には、この場で発言権を与えぬ!」
諸将は、いきなり振り降ろされた高言に、かっとなった。
「なにをっ!」
灌嬰が、立ち上がって韓信に挑みかかろうとした。
「灌嬰!静まれ。」
漢王は、部下を制した。
それから彼は、宮中に近侍する郎(ろう)どもに命じた。
「― 本日は、酒食を下げよ。」
直ちに、各人の座席から酒肴の類が引き上げられた。
韓信は、漢王に深く拝礼した。
「大王のご配慮に、感謝します―」
それから彼は、指定の席に着座した。
周勃は、今こそ韓信に何か言おうとした。しかし、彼はすでに酔いが頭に回って、言葉が思いつかなかった。
「さて―」
韓信は、本題に入った。
「大王。まずは、目的を定めましょうぞ。大王がこれより東に向かって天下の権を争われるときに、その相手は誰でありましょうか?」
言うまでもない、ことであった。
漢王は、答えた。
「項王― それしか、ありえない。」
韓信は、言った。
「項王― ひとつ、大王の率直な評価をお聞かせください。大王は項王と比べて、勇敢さと仁強さとで、彼に敵することができると思われますか?」
これも、言うまでもないことであった。
漢王は、飾る見栄も、見せる衒いも持ち合わせていない人間であった。敵わぬものは敵わぬと悟って、これまでの人生を渡って来た。今韓信に問われて、彼は常どおりの答え方で、答えた。
「― 敵わぬ。何一つ、項王には敵わぬことだ。」
韓信は、王に再拝した。
「率直なご意見で、ございます―」
韓信は王を嘉(よみ)して、続けた。
「そうです。項王は、天下に稀なる英雄です。大王の、敵うところではございません。」
しかし彼は、さらに付け加えた。
「そして、この大将軍もまた、項王には敵いません。」
漢王も諸将も、目を丸くした。
灌嬰が、怒気を丸出しにして言った。
「大将軍は、項王を破るために、王から任じられたのではないのか!それが、項王に敵わぬだとぉ!、、、それが、大将軍のお言葉かっ!」
曹参、酈商、廬綰と言った将軍たちも、厳しい目を韓信に向けた。
漢王の視線もまた、にわかに厳しくなった。
しかし、彼は言った。
「続けろ、、、まだ、言うことがあるだろう。」
韓信は、うなずいた。
「さよう。人物だけをここに取り上げれば、大王もそれがしも項王に敵うべくもありません。一匹の猛虎に、人間一人が立ち向かって勝てる道理はないのです。しかし、猛虎はただ一匹です。天下全ての者が、一匹の猛虎を恐れて、その暴れるままに任せています。どうして人間たちは、共に力を合わせて猛虎を追い詰めないのでしょうか。城市の衆が父老の指導の下に揃って虎狩りに繰り出せば、猛き獣もついには罠に落ちて、人に皮を剥がれるでしょう。それがしが大王に策するべきことは、機先を制して虎狩りの旗を高く掲げることです。すでに、その機は熟しております。よいですか―」
韓信は、項王の弱点と天下の状勢について、言葉を繋いでいった。

          

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第八章 背水の章


           
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