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十六 東伐献策(3)

(カテゴリ:死生の章

韓信は、言った。

「項王は、関中を三分して三秦となし、章邯、司馬欣、董翳の降秦三将をそこに封じました。三将をもって、漢中に蓋をしたのです。彼らは秦人であって、しかも雍王章邯は一世に轟いた名将です。しかし、彼らは人民の支持を全く受けておりません。」
三人はかつて秦軍を率いていたとき、兵卒に告げることもなく項羽に降伏してしまった。秦兵たちはいきなり敗軍とされて故国の攻撃を命じられ、しかも楚兵の虐待に耐えかねて、ついに反乱を企んだ。項羽は、新安で彼ら二十余万人を阬(あな)にして葬った。三将は、新安の虐殺で残されて、王に封じられた。三将は秦の父兄にとって、許すべからざる裏切り者であった。
韓信は、続けた。
「その三将が、関中を守備させられているのです。秦の父兄は、三将の背後にある項王を恐怖して、従っているだけです。いっぽう大王はかつて咸陽に入られた時に、秦の父老たちに対して法三章を宣言して、掠奪を禁じ宣撫に努めました。わずかの期間のことでございましたが、その後に襲った項王のあまりの暴虐破壊を経た今は、大王の印象は秦人の心に懐旧の念すら抱かせるほどに膨らんでいます。」
漢王の本質は、仁君でも何でもない。どこまでも高い位に昇り詰めたいと願う、欲の人であった。
しかし、咸陽に入ったときに掠奪を思い止まり、秦の父老に対して法三章を宣言したのは、事実であった。それは関中を己のものとするために、漢王が行なった狡猾な宣伝に過ぎなかったのかもしれない。しかし、漢王は欲の人であったとしても、統治の術を知っていた。もとは秦の政治の末端で統治されていた身であったから、人民がどのようにすれば喜ぶのかが、体で分かったのであった。彼がかつて咸陽で行なった小さな政策は、今や大きな宣伝材料に成長させる種となり得た。
韓信は、弁じた。
「― 耳をそばだてて、秦の民の声を聞いてごらんなさい。彼らは、大王が楚帝の約束によれば正しく関中の王になるべきであったことを、知っています。それにもかかわらず大王が関中を逐われて漢中に入ったことを、ひそかに恨んでいます。今こそ、郷里にくまなく檄を伝えて、大王の挙兵を知らせる時です。そうすれば、人民はたちまちに三将を捨て去って、大王のために働きます。これぞ、大王の兵が関中に打って出て勝利を得るための、最大の下地なのです。」
こうして、漢王は民の支持を取ることができる。
そのうえ、漢王は大義も得ることができる。
この二つは、漢王が勢を得て勝ち進むための、風であった。
後は、その風を受けて翔ぶ翼があればよい。
その、翼とは―
韓信は、言った。
「そして戦って、勝つ。我が策を、よろしく聞きたまえ。」
彼の言葉は、今後取るべき用兵について、進んでいった。
「三秦の王の中で最も西を守る者は、廃丘に都する雍王章邯。しかし、彼はすでに気概を失って、かつての名将の面影はありません。それがしはすでに故道を調べて、ここに兵馬を進めることが可能なことを知っております。途上には散関の険がありますが、それがしの観察したところ章邯にも似合わず備えを怠っております。明らかに敵は意気上がらず、守る心を失っています。この機会に、直ちに乗じるのです。一軍をひそかに故道から進ませて散関を抜き、直ちに進んで陳倉を襲います。陳倉は渭水を扼する要衝の城市で、これを取ればそれより西の隴右の地は全て手に唾して取ることができます。こうしてひとたび関中に楔を打ち込めば、その後大王の勢は関中に留まるところを知らないでしょう。三秦の王は、日を措かず全て虜になります。そして関中の平定が成れば、関東の諸侯は直ちに大王に靡きます。後は一瀉千里の道が、開けるばかりです。
孫子兵法に、曰く。

― 攻めて必ず取る者は、その守らざる所を攻むればなり(虚実篇) ―
この兵法家の言葉に従えば、大王の勝利は間違いございません。」
これは、かつて章邯もまた諳んじた必勝のための兵法であった。敵が油断している隙は、見つけたならば時を措かずに乗じなければならない。逡巡していればやがて相手も備えを固め、勝つことが難しくなるだろう。かつての章邯ならば、漢王が桟道を焼いて漢中に逼塞しているのを見て、かえって野望ありと見抜いたであろう。もし章邯が抜かりなく備えたならば、漢王が関中を見ることなどは、永久にできるはずがなかった。しかし、彼はこのときもはや名将の抜け殻にすぎなかった。それに対して、韓信は正しく兵法をもって攻めようとしていた。良き将の道とは、奇正を考え抜いて虚実に思いを巡らせる、想像力であった。韓信は、このとき兵法の真髄によく到っていた。
漢王は、兵法など何一つ知らなかった。
しかし、韓信の言葉を聞いて、彼は要約した。
「つまり― 俺が勝てる準備は、すでに整っているということであるな。」
韓信は、答えた。
「その、通りです。」
漢王は、言った。
「そして、勝てる以上は早く動かなければならないのだな。」
韓信は、答えた。
「そうです。時を措けば、猛虎がさらに暴れて、天下は昏迷するばかりです。項王から全てを奪い取る機会は、今より他はありません。」
漢王は、聞いた。
「いつ、動けばよいのか。」
韓信は、答えた。
「明日にも、動員の令を発したまえ。作戦は、すでにそれがしの胸中にできております。」
諸将は、驚くばかりであった。
周勃は、酔いも覚めて今は真面目に聞いていた。しかし彼の単純な頭脳では、ただ大将軍の言葉が本物らしいと、おぼろげながら感じることしかできなかった。
曹参、酈商は、今や大将軍の言葉に沈黙した。
灌嬰も、今は沈黙していた。だが、まだ彼のことを信じていたわけではなかった。
他の諸将も、言葉を差し挟むことができなかった。
漢王は、目を閉じた。
それから、ふ、ふ、ふ、ふと笑った。
「待っていた― お前のような奴を、俺は待っていたんだ、、、」
漢王は、拳に力を込めて、目を見開いた。
正面に座る韓信をくわっと見据え、彼は言った。
「この俺を、進ませる男を俺は待っていた!この俺には、何の才もない。だが、俺の手元には力だけがある。韓信、、、この力を貸してやるから、思う存分に使い切って見ろ!お前は、俺の力を使いこなせる、唯一の将であるようだ。俺はお前に会ったのが、遅すぎたぐらいのようだ。出兵だ!兵を挙げるぞ!この漢中を、出るぞ!」
漢王は、興奮して立ち上がった。
諸将は、王の宣言に打たれて、並び立ち上がった。
韓信は、静かに起立して、漢王に拝礼した。
彼の横には、終始無言のままであった樊噲がいた。
樊噲は、立ち上がってその巨体を大将軍に向けた。
彼は、無言のままでこの新たに漢軍を率いる将に向けて、拝礼した。
拝礼された韓信は、静かなままであった。

― 第六章 死生の章・完

          

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