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一 帝のいない帝国(1)

(カテゴリ:楚漢の章

中国は、一つの国であるには大きすぎる。

人間の常識というものを基礎にして国家を作り上げるならば、その広さの限界は生活をしている人々の意思が国家権力と一体化できる― 少なくとも、そのような幻想を持つことができる― ところに、尽きるであろう。通信手段の発達しない前近代社会であるならば、それは同胞としての意識を何となく持てる範囲を越えられないに違いない。つまり、農商業社会ならば都市国家であり、遊牧社会ならば、部族国家である。
中国とは、一つの文明圏である。
ここで文明と名付けたのは、文化と対照させるためだ。両者は常に対比される用語で、しかも使う論者によって用語の定義がころころと変わる。だから筆者も、この文脈の中でのみ通用する定義をでっちあげてしまいたい。手前勝手なのは、許してほしい。
文化とは、人民が意識せずに生のままで持っている、衣・食・住・言語・音声・匂いなどの、他人と共有できる好き嫌いである。文化を共有するとき、人民は他人を空気のように同胞と見なすことができるであろう。
いっぽう文明とは、異文化にまで侵入して押し付け、支配し、かつ魅惑させることができる優越した力を持ったある種の文化が、異文化でも消化可能なまでにダイジェストされた残りの結晶である。ある文化が文明となって異文化までを巻き込むとき、オリジナルの文化から最も普遍的な要素だけが抜き取られ、変形され、そして(ほぼ不可避的に)異文化に通用できるように誤解される。そうして整形された文明は、もはやオリジナルの文化の担い手だけが独占するものではなくなる。異文化にも通用できる魅力を担っているために、狭い文化圏を越えて広がっていくことであろう。優越した文化の担い手は往々にして軍事的にも優越しているために、異文化を軍事的に征服した帝国が作られる。帝国を運営するために採用される制度は、文明であろう。
古代中国は、広大な平原に大小の都市国家が並立して互いに争っていた。その姿は西洋の中東やエーゲ海沿岸、イタリア半島での帝国以前の姿と、同質のものであった。やがて都市国家の中から大なる諸侯が現れて中小の諸侯を併合し、国家は次第に少数大規模となった。中国の、戦国時代である。最後に突出した諸侯が、全ての諸侯を打ち倒して併合した。中国の秦帝国であり、西洋のペルシャ帝国・ギリシャ帝国・ローマ帝国である。帝国が成立したとき、その版図は広大なものとなった。そして、その広大な版図を纏める原理は、狭い都市国家を運営するための文化では間に合わないはずであった。必然的に、必要最小限の普遍的な統治の要素が選ばれて、制度化されて広められることとなった。秦帝国ならば、それは法と官吏による中央政府からの一元的支配の組織であった。それは中東の大帝国や、後期ローマ帝国の支配原理と同質のものに行き付いた。
秦が打ち立てた帝国の原理は、本質を変えることなく後世の帝国にそっくり受け継がれることとなった。後世に秦帝国から付け加えられたものといえば、儒教と科挙の二つである。漢代に儒教が採用されて、普遍的な人間倫理として推奨された。実際、儒教は前近代社会の倫理としては、実に洗練された普遍性を持つ思想であった。さらに後世、科挙の制度が驚異的なまでに整えられた。どんな辺境の人民でも定められた試験科目を勉強すれば及第できることが保証されたことによって、地方の人材を官界への入門競争に奔走させることに成功した。儒教と科挙は、帝国を維持するために洗練された、見事な文明であった。
中国は文明圏を束ねる帝国として、長い期間をかけて洗練に洗練を加えた。それはフランス革命以前の西洋人たちをも感嘆させた、人類の歴史の一つの驚異であった。だが、その文明圏を束ねる原理は、しょせん帝国であった。近代社会には、付いて行けるはずもない。中国で言えばたった一省の大きさにすら足りないオランダが独立を勝ち取って、商機を求めて世界中に人間を送り込み、中国の沿岸にまで到達した。その頃の中国は明清帝国であったが、沿岸の福建省や広東省では械闘(かいとう)と呼ばれる隣村同士の私闘が頻発して、地方の政府はそれを抑えることすらできなかった。帝国の政府は地方の人民を細やかに統治するためには古代的に疎漏なままであり、人民は人民でオランダ人が持ったような国民としての意識など、各省はおろか郡県単位でも育っていなかった。広大な文明圏をゆるやかに束ねる帝国の制度は、人間の社会に起こる問題を解決するための能力と速度が、あまりにも低くて遅すぎた。それで、新しい人類の時代に付いていけずに、没落していくこととなった。
とにかく、中国は広大な文明圏である。これを一元的に統治しようと思えば、文明としての仕掛けが必要であった。
法と官吏を用いて支配した秦帝国は、反乱を抑えきれずに、潰えた。
秦が潰えた後を支配したのは、楚帝国であった。楚には項羽と劉邦がいて、秦軍を打ち破った文句なしの主役であった。それで、秦の後を継ぐことに疑いはなかった。
その楚帝国は、秦の制度を真っ向から否定した。
郡県制を廃して、中国の各地に王候を即位させた。
それらの王候は、国内で自治を行なうべきであった。広大に過ぎる中国であるから、王国に細分するのは人間の自然な感覚に近いとも、言えなくはない。
では、その上に立つ帝国の主は、どこに?
当初、楚王として立っていた懐王が、そのまま帝号を称した。諸侯は、楚の義帝と称されたこの人物に封建されたという形式が、採用された。
封建制は封建制で、広い領域を治めるためのもう一つの原理となりうる。
だが、これも結局帝国と同様に、ただでさえ自律的となりがちな諸侯の動きを押さえ込むために、何らかの仕掛けが必要であった。
その、仕掛けとなるべきものは。
わが徳川幕府の例を見るならば、一つは言うまでもなく最強諸侯の武力であろう。徳川幕府は時代が下るに連れて各地の諸侯の自律傾向が強まっていったが、それでも親藩譜代大名の力を頼みとすれば、最強の諸侯であり続けた。幕末になってその武力が長州一藩をすら抑えられないことが長州征伐の失敗で明らかとなった時に、幕府権力は終焉した。
そしてもう一つは、倫理による支配階級の飼い慣らしであっただろうか。初まったばかりの幕府が輸入倫理の朱子学を武士の学問として採用したのは、慧眼であった。野人の群れであったような戦国の粗野な武士たちにとって、舶来の学問はよく効いた。訳がわからぬながらも上から推奨されて必死に勉強しているうちに、いつの間にかその中に流れている忠孝の倫理に、武士たちは毒されていった。おそらく、初期の幕府の首脳は、中国の歴史から学んでいたのであろう。封建制のために科挙を採用することはできなかったが、儒教は迷わずに採用された。徳川幕府は武力によって諸侯を外から押さえ込むと同時に、朱子学の倫理によって武士を心の内から鋳型にはめ込もうと試みたのであった。結果、二百五十年間の治世に繋がった。
だが千数百年前の楚帝国は、どうであったか。
武力としては、西楚の覇王がいる。項王の勢威は、諸侯を震え上がらせる。
しかし、項王が他の諸侯に与える影響力とは、武の力だけであった。彼が都する楚は、他国と文化が違いすぎる。たとえば古い伝統を持つ斉人が南蛮と蔑む楚の文化を慕うことなど、ありえなかった。項王は関中も棄て去って故国に帰り、普遍性のない楚の文化に留まったままで覇王を称した。彼は武力の担い手であるから、それでもよいかもしれない。しかし、帝国を治めるには、武力以外の仕掛けもまた必要なはずであった。
その仕掛けとしてはほとんど意味をなさない楚の義帝であったが、その仕掛けすらも若き覇王にとっては偽善に見えてしまったのであろうか。項王は、義帝を彼なりに処遇した。いや、処遇すらしなかった。

          

各章アーカイブ

           
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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章