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一 帝のいない帝国(2)

(カテゴリ:楚漢の章

義帝が、どうして項王にとって邪魔者なのか。

それは、誰かに担ぎ上げられるおそれがあるからであった。
このときの事情は史書からではしかとは分かり兼ねるが、義帝と項王との間に間隙ができていたことだけは、間違いなかろう。彭城にいて戦うことなかった義帝であったが、それでも君主は君主であった。かつて、宋義がいた。彼は巧みに懐王と呼ばれていた頃の義帝に取り入って、側近となりおおせた。そして、君主からの命として、卿子冠軍の上将軍に座った。彼は戦死した項梁の甥の項羽を次将に抑えて、総軍の指揮権を王から与えられたのであった。
その宋義を斬って、項王は上将軍の位を奪い取った。義帝は、それを追認するより他はなかった。このとき項王は自分の力で権力を握ったのであるが、いざ勝利を得て彭城に戻ってみると、かつての宋義のようなことがまた起りかねないと、思ったのかもしれない。
彭城は、項王のための都であった。
覇王と帝が、どうして都を同じくするべきであろうか。
義帝にも、朝廷があった。それで、項王は義帝のところに参内しなければならない建前であった。
項王が、ようやく義帝の朝廷に現れた。
だが項王は、義帝を拝することもなく、いきなり呼びかけた。
「― 義帝。この彭城は、帝の都ではありません。新都を、営まれよ。」
義帝は、項王の傍若無人に苦々しい顔をした。まさかこの恐怖の青年に向けて、うぬこそ彭城から出て行けなどとは命じられるはずもなかった。
「どこに、行けというのか。朕には、領地がないぞ。」
項王が決めた諸侯の封地の中には、いまだに義帝のために割かれるべき天領が決められていなかった。何もかもが、この楚王家の末裔に取って、ぞんざいであった。
項王の後ろには、亜父范増が無言で控えていた。
思えば彼が、項梁に対して野に在った楚王家の裔を担ぎ出して、楚復興の象徴となすように献策したのであった。秦が倒れた後、もとの王をそのまま義帝として楚帝国は始められた。そうしなければ、大義名分が立たなかったからであった。
しかし、今となっては、彼はもはや項王の為すに任せるより他はなかった。確かに、義帝の存在は項王にとって危険であった。それは、項王に背く諸侯が早くも次々に現れようとしていたからであった。義帝のために項王を討つ、という大義名分のために、このもと羊を牧していた男は進んで利用されることであろう。義帝の内心がすでに項王を憎んでいたことは、范増には明らかであった。
(この帝国、、、どうなることか。)
范増は、老いた心を曇らせるばかりであった。
項王は、言った。
「義帝― 私と共に、剣を握って戦えますか?」
義帝は、彼の問いに答えられなかった。
項王は、続けた。
「戦えませんか。ならば―」
それから項王は、義帝に案を出した。
「いにしえより、帝たる者は千里四方を領して、必ず川の上流に居していた、と聞きます。秦もまた、そうでした。これからは、楚が天下を治めます。楚の川の上流に都を築いて、そこから奥に籠って天下を治められるが、よろしかろう。」
君主が川の上流に居住したという言い伝えは、おそらく水利権を握った領主が下流の農民の水を意のままにできた、という古い事実から生まれたものであったろう。かつて周王国も秦帝国も渭水の上流に都していたために、このような伝説がもっともらしく聞こえたのかもしれない。
だが、項王が義帝に出した案は、奇想天外なものであった。
「その川は、湘水。都は、湘水を遡った郴(ちん)!」
義帝も、義帝の周囲の者たちも、項王の言葉に仰天した。
「― 郴に、新都!ふ、、、ふざけるなっ!」
義帝の側近の一人が、さすがに項王に声を挙げた。
郴は、南楚の果てであった。この土地より南は、南越である。
項王は、声を挙げた男を、一睨みした。
男は、すくみあがって口を塞いだ。
項王は、言った。
「秦の関中を、お考えになられよ。関中は、中国の西の果てでした。しかし秦は、関中の奥深くより天下を治めました。それを継がれた義帝は、中国の南の果てに赴き、天下を睥睨なさるのです、、、何の不都合が、あるか!」
つまり、西辺に都を置いていた秦の地図を、ぐるりと直角に回転させたようなものであった。
以前、項王に諂(へつら)おうとした方士が、彼の前で主張したことがあった。
楚は南方の気を受ける国であるから、楚の最も南にある水の上に都を築かれるが、よろしかろう。さすれば水が流れ降るがごとく、楚の気は天下を潤して治まるであろう。このように方士は、本気の目をして項王に熱心に説いたのであった。
項王は、あまりの愚劣さに方士を一喝して追い払った。
その愚劣な案を思い出して、義帝に持ち出したのであった。
「范増!、、、何とか言ってくれ!」
義帝が、叫んだ。
しかし范増は、目を閉じて何も言わなかった。すでに、この後のことも計画されていたのであった。
項王は、郡臣ともどもに通告した。
「群臣を連れて、直ちに遷都なされよ!、、、川を昇る用意は、すでに臨江王と衡山王が行なっています。さらば!」
そう言い遺して、彼と亜父は立ち去った。
臨江王共敖は、もと義帝の柱国(ちゅうこく。大臣)であった。だから義帝の近臣であったわけであるが、この頃すでに項王を恐れて彼に従っていた。義帝は、取り残された。彼の群臣たちは、互いに目を合わせるばかりであった。
臨江王共敖と衡山王呉芮は、義帝の都する南楚の地の王であった。二人に伴われて、義帝は彭城を逐われた。
そして、殺された。殺したのは、項王の意を受けた二王であった。
『史記』秦楚之際月表では、義帝が弑されたのは楚帝国が始まった年の十月のことであったとされている。しかし、これはあまりにも遅すぎる。平セ隆郎氏は、これを先述した楚の暦による記録を漢の暦とみなして誤読した結果ではないかと指摘しておられる。氏の指摘によれば、義帝が弑されたのは項王以下の諸侯が関中から帰国したすぐ翌月の、五月のことであった。こちらの方が、史実に近いのかもしれない。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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