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二 覇王の孤独(1)

(カテゴリ:楚漢の章

項王が義帝を亡き者にしたのは、彼らしいと言えば彼らしい明快な決断であった。

後世の覇者曹操のように、形だけの帝を立てておいて実権を握るような老獪な智恵は、このとき項王も彼の下にいた亜父も採るところがなかった。いまだこの時代は秦帝国が短期間で倒れたばかりで、天子は力以外の何ものかに正統性を負っているはずだという儒教的幻想は、まだぜんぜん広まっていなかった。項王は、よって力で天下を抑える道を選択した。その政治的結果は、彼の顧みるところでなかった。
「― 田栄が、とうとう斉王を名乗りました。すでに膠東王を弑し、済北王を大破して三斉をことごとく奪い取りました。」
項王に対して、陳平が平伏して報告した。
彼は彭城に帰城した後も、城外に陣幕を張って陣営を作り、そこに留まったままであった。したがって、城外の陣営が覇王の政務所のようになってしまった。
項王は、陳平の報告を聞いて、歯ぎしりした。
怒りに震える王をよそに、陳平は無感動な声で続けた。
「田栄に向けて関中での会盟違反を責める文書を送ったところ、反論が戻って参りました。かやつが申すには、斉と西楚は別国であって斉の仕置は斉人の勝手次第である、と。斉と西楚の上に立つ帝の言葉がない限り、西楚の覇王の命令を斉が聴くいわれは殊に無からん、などと、、、」
「― 可悪(おのれ)!糞蝿めが、、、」
項王は、前の机を思い切り叩きのめした。もう何度も殴られて机の用を成さなくなっていた分厚い青銅の横板が、ついにばきりと割れた。
「討つ!」
項王は、激怒して叫んだ。田栄などは、殺さなかっただけでも有難いと思えぐらいにしか、考えていなかった。それが王を名乗って三斉を奪い取ったなど、彼は決して認めたくなかった。
しかし、亜父范増が諌めた。
「今は待たれよ、大王。」
項王が、いきり立って亜父に言った。
「なぜだ!亜父も分かっておろうが、、、叩かねば、ならん!」
しかし、亜父は頭を振った。
「確かに、田栄を捨て置けぬのは間違いござらん。しかし、田栄はいつでも亡ぼせます。むしろ容易に亡ぼせない敵の動きを、今は警戒しなければなりません。大王が兵を進められるべきは、むしろ西ではありませんか。」
陳平の眉が、かすかに動いた。しかし、平伏したままの彼の表情は、項王と亜父の見るところではなかった。
項王が、言った。
「漢王は、もはや桟道も焼き払って漢中に留まったままではないか、、、彼には、何の動きも見られない。むしろ、関中に封ぜずに悪いことをしたぐらいだ。亜父、あなたが彼を関中から逐い出したのであるぞ。」
項王は、漢王を警戒するどころか、むしろ亜父を責めた。
亜父は、項王の漢王への甘さに苛立った。
「桟道を焼いたごときが、何の塞ぎになるというのですか。奴は、何をしでかすか分からぬ男です。北の糞蝿ごときをむしろ後回しにしても、漢王には備えなければなりません。まずは、この彭城に留め置いているもとの韓王。あれを除いて、我らに従う別人を韓地に立てたまえ。漢王に、韓から東への通り道を与えてはなりません。」
もとの韓王とは、韓王成のことであった。彼は楚帝国の中で韓王から列候に落とされ、彭城に抑留されていた。
しかし、項王は亜父の陰険な手法を、疎ましく思った。
「そこまで漢王を、信用できないというのであるか。田栄ごときを、野放しにしたままで!」
亜父は、答えた。
「― それが、天下の仕置というものなのです。」
彼はそう言って、項王に頭を下げた。
陳平は、項王と亜父が言い争っている間、無言であった。
(項羽は、もはや亜父だけであるな、、、)
彼は平伏しながら、一人思った。
彼の情報網には、すでにあの韓信が漢で大将軍に任命されたことが、伝わっていた。そして張良子房は、韓王成が殺されることになれば、やはり漢に走らざるをえない。この二人がいれば、漢は必ず漢中から抜け出して、やがて東にあふれ出てくる。それも、近いうちにそれは起るはずであった。
しかし、陳平はもはや項王に進言することは、なくなっていた。
彼は、己のために天下の推移を慎重に読んでいた。
(田栄が、陳餘と彭越を煽り立てて、北に戦線を作るだろう。漢王は、やがて西に戦線を作ることとなる、、、二正面からの、攻撃、、、常識ならば、これで項羽は終わりだ、、、、だが、この男は時に常識を破る、、、)
陳平が、いまだに項王から逃げ出していないのは、この奇蹟の男の非常識のためであった。項王が、これまでの戦いでも見せた非常識の強さを、再び見せたならば?
(、、、そこだけが、私には読みきれない。)
陳平は、思った。
結局、亜父の謀略が容れられて、韓王成は彭城で殺された。
そのことが下邳に伝わった夜、主従二人がひそかに城市から船で逃れた。
船上の張良は、言った。
「韓子が、ついに大将軍となった。ようやく、彼は所を得たのだ。」
従者の陳麗花が、答えた。
「公子もまた、漢に?」
張良は、うなずいた。
「私は韓王を、救うことができなかった。悲しいことであるが、今は大道を行かなくてはならない。我が遺された命を使って、一刻も早く戦を終わらせよう。今の私の望みは、それだけしかない。」
彼は、また胸に痛みが走った。
麗花が、彼を支えた。
張良は、麗花に言った。
「范増や陳平ならば、私も互角に戦うことができるが―」
だが項王は、恐るべし。
張良の考えもまた、韓信や陳平と同様であった。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章