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二 覇王の孤独(2)

(カテゴリ:楚漢の章

項王は、日々を楽しまなかった。

彭城に戻って来たときには、この土地から彼の夢を始めようと、期待感に胸を膨らませていたものだ。
虞美人が、いる。
共に戦い抜いた、江東の子弟たちがいる。
素晴らしい人と、素晴らしい仲間ではないか。彼女や彼らと共に、私は夢の国を作るのだ。項王は、彭城に帰還した頃には、確かにそう願っていた。
「― なのに、私は戦うしかない。私しか、刃向かう者どもと戦える者がいない。私には、それが分かってしまう。だから、私はいずれまた戦って、敵を殺すのだ、、、どうして、こうなのであろうか?」
項王は、若者らしい嘆きを漏らした。
万の軍を叱咤するときの咆哮からは想像もできない、普通の若くて可愛らしい声であった。
彼の前には、虞美人がいた。
虞美人は、誰もが認める覇王夫人であった。王の后(きさき)であるならば、九重の宮廷を構えて千人の婢妾を従えるのが、格式というものであった。実際に、各国で成り上がった王后というものは、富貴の家の太太(おくさま)となったことを喜び、巨大な家中で権力を振るう快楽に例外もなく酔い痴れるものであった。
しかし、虞美人だけは王后の富貴など、目にもくれなかった。
「普段、家とか国とかに抑えられ縛りつけられて、言いたいことも言えない女たちなんだ。だから、いざ力を得るとやりたい放題やりたがるんだよ。私は、婢妾どもをいじめて楽しむ生活なんか、したくもないね。」
彼女は、虞美人のままであり続けることを、項王に言った。もちろん、彼は許した。
虞美人の前の項王は、続けた。
「私は、嫌いな人間と付き合うことなどできない。心に嘘を付いて、わずかも尊敬できない偽善者どもと朋友のごとく挨拶を交わすのが、政治なのだろうか?そんなことをするために、私は戦って勝ったのだろうか?、、、ああ、この国はいやだ。いやらしい。この国は、つまらない奴ばかりが力を得ている。何もかも、打ち砕いてしまいたい。だが打ち砕くためには、また戦なのか、、、」
項王は、泣いていた。
心のままに生きれば、人がますます去って行く。
彼は、それが悲しくてならなかった。彼とても、人を愛している。誰よりも、愛している。だが、人は彼を容れてくれない。人々は、彼を恐れるばかりであった。
虞美人は、静かに泣く項王の頭を、両の手で優しく抱いた
今二人がいるのは、彭城の陋巷にある昔ながらの虞美人の邸宅であった。
もちろん、彼女が望めば城市のどんな豪奢な家にでも移り住むことができたし、それよりももっと大きな宮殿を造営することすら、意のままであった。しかし覇王夫人は、男から望みの土地に移ってよいと言われて、考えた結果が元のままであった。項王がこの家では十分な警護ができないと言って渋ると、虞美人は一笑した。
「私は、夏の風に舞って、冬の雪と踊る女だよ。そんな私を、あなたは奥深くに押し込めるつもりなのかい?私は、風。あなたは、嵐。奥深くに籠っては、風を感じられない。もし風の私を巻いて取ろうとする旗が襲ってきたならば、嵐のあなたが旗を吹き飛ばしておくれよ!」
項王は苦笑して、許した。そして今の項王が彭城で赴くところと言えば、城外の陣営にいるか、そうでなければこの虞美人の邸宅ばかりであった。
覇王は、いまだに何の夢も始めることができていなかった。敵に利用される義帝を逐って、殺さなければならなかった。斉で、反乱が起った。燕でも、封建された王たちが抗争した。彼は、それらを抑え付けるために、いずれ出馬しなければならなかった。
項王は、虞美人の優しい腕の中で、言った。
「時々、何もかも捨てて逃げてしまいと思う― だが、そんな私には、あなたは付いてこないであろう?」
彼は、虞美人を見つめた。狼の目は、涙ぐんだ優しい目に変わっていた。
虞美人は、答えた。
「あなたが本当に負ければ、私も―」
項王は、言った。
「でも負けたら、もう生きていけない。」
彼は逃げ出してしまうには、力も気概も強すぎた。戦って勝てる敵を前に、どうして逃げなければならないのか。そう思うと、投げ出したいと思った自分の心に怒りが湧き上がった。彼は負けたくなかったが、戦わなければならない自分が悲しかった。
虞美人は、項王を抱きながら、言った。
「― いいんだよ。私とあなたは、同じ魂の持ち主だ。世に容れられないのは、昔からのこと。だから私は高く、あなたは強い。高くて強い私たちを、誰が倒せるもんか。戦った先には、きっと何かがあるさ、、、きっと。そうでなけりゃ、私たちのような魂の持ち主は、生きていることはできない。」
項王は、うん、とうなずいた。
虞美人は、彼に優しく微笑んだ。
(よい、世界は―)
彼女は、項王の温かさを感じながら、思った。
(― 私たち二人、必死に走って行く。その走っている間にしか、ないのかな。)
それから彼女は、何も言わなかった。
秋の陽が、落ちようとしていた。部屋の中が、暮れていった。二人は、差し込む西日が暗くなるままに、任せていた。
翌日。
急使が、西から飛び込んで来た。
「漢王、漢中より出撃して、雍王を囲む!」
陣営は、あわてふためいた。
亜父范増が、声を震わせながら使者に問い詰めた。
「早すぎる!、、、桟道を焼いた漢王が、どうしてこんなにも早く雍王を囲んだか!」
急使の回答は、少しも亜父の合点のゆくものではなかった。急使もまた、戦況がよく掴めていなかった。それほどに、あっという間の襲撃であった。
亜父は、歯ぎしりした。
「来るべきものが、来たかっ、、、漢王!」
これで、反乱は北と西に広がってしまった。
諸国の不満分子が、勢い付くのは必至であった。
「直ちに軍議を行ないましょうぞ、大王!」
亜父は、振り返って叫んだ。
だが、項王はいつの間にかいなくなっていた。彼の座は、もぬけの殻であった。
このとき項王は、騎馬の者どもを連れて、彭城の城市を回っていた。
いつものごとく彼の横にいたのは、呂馬童であった。
項王の主従は馬を並足で走らせて、城壁の周囲に沿って進んだ。
項王は、従う騎士たちに言った。
「― この城市を、もっと美しくしたいものだ。」
呂馬童は、眉をひそめた。
すでに、漢王が兵を挙げた。これから、戦が待っている。都の造営など、している場合ではない。
「それは、いずれできましょう。今は、そのような時ではありません。」
呂馬童は、答えた。
だが項王は、彼に言った。
「戦だけなど、もう私は嫌だ。私は、戦以上のことがしたい。私は、この城市を作り変えようと思う、、、直ちに!」
呂馬童も騎士たちも、主君の言葉に驚いた。
だが項王の表情は、通常の通りであった。彼の通常は、人の通常ではない。そういうわけで、あった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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