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三 勝てるを知る(1)

(カテゴリ:楚漢の章

漢元年― 何度も言うようであるが、後世の歴史観から遡った暦であるが― 八月、漢王は兵を率いて漢中を抜け出した。

従う武将の名には、曹参、酈商、周勃、樊噲、灌嬰、夏候嬰といった漢王の旗本たちが揃っていた。
丞相蕭何は、漢中に留まって補給を担当した。彼にしかできない、出師の下支えであった。
そして将兵を統括して関中を攻め取るべき大将軍は、漢に投じたばかりの韓信であった。
最初の一撃は、面白いように成功した。
漢軍は、故道からひそかに出て散関を襲い、これを略取した。
それから直ちに渭水に向けて駆け下り、陳倉を狙った。
雍王章邯の軍が迎え撃ったが、漢軍によってたちまちに敗れた。陳倉は、漢軍に陥ちた。
あまりにもあっさりと勝ってしまったために、漢の諸将はどうしてこのことが今までできなかったのだろうかと、不思議がるばかりであった。
「さすが、諸君は歴戦の強者。総員、見事に働いてくれた。感謝する。」
大将軍韓信は、曹参ら諸将を集めて、奪い取った陳倉城で労をねぎらった。
「― 意外と、簡単だったな?阿哥(にいちゃん)。」
韓信の横から、主君の漢王がにやにやしながら口を出した。
韓信は、漢王の調子の良さに苦笑した。
丞相から韓信を鄭重に扱えと釘を刺されていたのに、漢王はもう彼とのやり取りを、いつもの人を侮る流儀に変えていた。だがこれも、人間通の彼が韓信の性格を見抜いた上での計算づくであった。
― この阿哥は、大きな仕事をしたがっている。思いっきり権限を与えて、自由にやらせるのが一番だ。
だから、礼儀など二の次であった。むしろ韓信を鄭重に扱いすぎては、他の武将どもが嫉妬してつむじを曲げるだろうと思った。能無しなどと罵倒しても、漢王にとって沛以来の者たちはやはり骨肉に等しかった。
漢王は、韓信に聞いた。
「とりあえず、関中には出ることができた、、、で、これからどうするの?」
韓信は、軽く拝礼して答えた。
「三秦を、平定します。」
漢王は、さらに聞いた。
「どうやって、平定するのか?」
韓信は、答えた。
「諸将が兵を進めて、拠点を奪います。降る者は取り上げ、慕い来る民は慰めます。これで、三秦は平定です。」
漢王が、怪訝な顔をした。
「ずいぶん、簡単に言うではないか!」
しかし韓信は、答えた。
「簡単だからです。もう関中に出た以上、平定は成ったのです。」
諸将は、大将軍の大言にあきれた。
「ずいぶん、簡単に言うじゃないですか?大将軍閣下。」
灌嬰が、疑問を投げ掛けた。彼は、大将軍の作戦通りに関中に出ることができたので、今は大将軍への発言を少し柔らかくしていた。だが、一度勝ったからといって大言を吐くこの男に、また不信感を盛り返した。
灌嬰は、言った。
「まだ、陳倉で勝ったばかりじゃないですか。雍王は健在で、好畤(こうじ)には雍王の子章平が兵をまとめています。他の王の土地については、まだ手も付けられていません。どうしてこれで、平定が成ったと言われるのか!」
彼は、また大将軍に対して棘ある口調となった。
しかし、韓信は莞爾(にこり)として、彼に答えた。
「灌郎中― あなたのような歴戦の将が、漢にはいるからではないか。」
それから、韓信は諸将に言った。
「建成候、威武候、信成候、臨武候、昭平候、、、皆々が、よく兵を使い、戦場では最高の仕事をこなすことができる。これだけの武将が漢軍にはいるのに、戦って勝てないはずがない。そして降将を容れて民を懐かせる術を知る大王が上におられるのに、関中が帰せぬはずがない。私が為したのは、最初に穴を穿つことだけです。この陳倉を取って、三秦の東と西に通路が開きました。兵の補給は、背後の漢中より滞ることがありません。丞相が、いるからです。これまでの漢に不足していたこと、それは― 勝てるべきことを、知らなかったこと。それだけだったのです。私は、こうして漢が勝てることを諸君に教えた。私の役目は、三秦平定においては、これで終わったのです。」
韓信は、自信をもって語り終えた。
諸将は、まず彼の全く新しい言葉に驚いた。
建成候曹参や、信成候酈商は、腕を組んでうなるばかりであった。
臨武候樊噲や、昭平候夏候嬰は、韓信の智謀に感心することしきりであった。
威武候周勃は、理解できないので酒が欲しいと思った。
灌郎中も、それ以上は韓信に対して何も言うことができなかった。
漢王が、手を叩いて笑った。
「いいぞ、いいぞ!その調子だ、阿哥!」
こうして、漢軍は関中に楔を打ち込むことに成功した。
この後、秋から冬にかけて漢の諸将はそれぞれに兵を率いて、三秦を次々に取って行った。
陳倉を拠点として雍(よう)、西県(せいけん)を取り、好畤で章平の軍を破った。曹参が戦い、樊噲が城に一番乗りして、敵陣で県令・県丞を斬った。そして戦場での周勃の功績は、最高であった。
章平は敗れて好畤から逃れ、雍王章邯のいる廃丘に走った。漢は、三秦の騎兵を次々に打ち破って前進していった。とうとう咸陽まで、漢の領するところとなった。その間に酈商は隴西都尉に任じられて別働隊を率い、北地・上郡の諸県をまるごと陥としていった。
破竹の勢いとは、まさに漢軍のことであった。
韓信の戦略は完全に正しかったことが、わずかの間に証明されたのであった。
韓信が攻略した道は、四百年後に蜀漢の諸葛亮孔明が魏帝国を討たんと進んだ道と、一致している。諸葛亮の前後五回に渡る北伐のうち、第二回はまさしく故道を通って陳倉を襲う作戦であったし、一・三・四回目の作戦も隴西を取って祁山に陣取りそこから東進しようとしたもので、基本的な戦略は変わらない。最後の第五回は十分な準備をして本軍を桟道から出したが、彼は五丈原に倒れた。五丈原は、陳倉から渭水を下ったところにある。
韓信も諸葛亮も、通り易き道を選んで関中の西を奪い、そこから三秦を平定するという戦略は全く同じであった。蜀漢の魏延が第一回で提案した、子午道から一挙に関中の東を取るという作戦は、出たはいいがその後連戦連勝しなければいずれ軍が孤立して亡びる、賭博でしかなかった。諸葛亮は、当然これを取らなかった。
だが、四百年前の韓信は成功し、四百年後の諸葛亮はついに関中を奪うことができなかった。
その、最大の原因とは。
韓信の場合は、敵の項王の帝国が、不和の渦巻く脆い体制であった。韓信は、その体制が脆いうちに、漢王に勧めて直ちに兵を挙げさせた。関中を守る章邯は地元の民から孤立した王であり、倒すのは容易であった。その上、関東の諸侯には本音では項羽の体制に反抗したいという機運が、渦巻いていたのである。漢の挙兵は、これに火を点けるだけで敵は浮き足立った。
諸葛亮の場合は、北伐を起こした時点ですでに敵の魏帝国は安定した政権であった。諸葛亮は戦術的才覚を見せて何度か局地戦で勝利することができたが、全体としての魏軍の有利は微動だにしなかった。蜀漢軍は常に敵に比べて兵力が不足し、しかも糧秣の補給は続かず、北伐の結果はいつも判を押したように補給切れによる撤退であった。
蜀漢と魏では、国力に差がありすぎた。圧倒的に虚弱な蜀帝国の力では、正面から攻めても攻めきれるものではすでになかった。司馬懿は彼我の優劣が覆し難いことを知っていたために、諸葛亮と正面から戦うことを避けて、持久戦に徹したのであった。敵地に踏み込んで持久戦をされれば、国力の差でもはや付け入る隙はありえなかった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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