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三 勝てるを知る(2)

(カテゴリ:楚漢の章

気が付いてみると、年内に塞王司馬欣と翟王董翳は漢に降っていた。

漢王は、彼らを殺さず諸侯のままで迎え入れた。韓信の献策どおりに、天下を項王と項王の敵との決戦として演出しなければならない。敵の敵は味方の論理を、このときの漢王は冷静に貫いた。
雍王章邯は、さすがに廃丘に籠って、降らなかった。
だが、すでに勝負の付いた籠城であった。漢軍は、廃丘に水を引いて城市を沈め、章邯の身動きを取れなくしてしまった。かつて彼は、大陸を北に南に駆けて、その用兵の天才で諸侯を震え上がらせた。その名将が、今や一城に押し込められて、漢軍から降伏を呼びかけられる境遇に追い込まれてしまった。人の命運とは、能力だけではないようだ。天がその持てる才に対して十分に発揮できる時と所を与えたとき、人は風雲に乗る。二年前、風雲に乗っていたのは章邯であった。去年は、あの項王が風雲を呼んで昇龍となった。
漢王軍は、廃宮の城市を囲みながら、すでに先の先まで手を打つ作業に入っていた。
「章邯は、もう動けません。しかし大王が項王の敵を全て容れる姿勢を貫かれるために、さらにもう一押し降伏を呼びかけていきましょう。」
韓信が、軍議の席で漢王に進言した。
彼は、すでに韓進撃の作戦に取り掛かろうとしていた。関中を平定したら、時を措かずに東の諸侯を抑えてしまう。勢いが、大事であった。諸将は、大将軍が次から次に打ち出す作戦の行程に、毎日が付いて行くのに精一杯であった。
「― 章邯も、何という没落か、、、昔は奴が一寸(ちょいと)足の指を動かしたぐらいでも、天下は浮き足立って大騒ぎとなったもんだ。」
漢王が、肩をこきこきと鳴らした。
彼は、にやけながら大将軍に言った。
「侍女に、肩揉ませてもいいか?」
そう言って漢王は、へ、へ、へと笑った。
韓信は、笑いもせず答えた。
「大王のお体がお健やかになられるならば、、、どうぞ。」
漢王は、おどけた顔をして言った。
「ははは。しないよ、、、お前の前では。」
それから、彼は韓信に続けて言った。
「章邯の勢いを食ったのが、項羽だった。俺は、去年あの子に到底勝てないと思った。それが、どうだ。今や項羽の勢いはひっぺ返され、また天下の風雲は動き出した。天は、まことに気紛れなもんだ。さて今度は、、、誰かな?」
韓信が何か言う前に、漢王が突っ込んだ。
「どうやら、お前のような気がするな、、、阿哥(にいちゃん)?」
漢王の言葉は、韓信を一瞬どきりとさせた。
彼の表情の変化を見取って、漢王は言った。
「― そうではない。俺だ!」
彼はぴしゃりと、厳しい口調に変えた。
「色気を、見せるんじゃないぞ、、、」
任侠流の、わざとしたはったりで少し凄んで見せた。
韓信は、いつもの軽い拝礼をした。
「― その、通りだと思います。」
漢王は、手を叩いて哄笑した。
韓信は、漢王に手玉に取られてしまった。
その夜。
夏候嬰が、韓信の宿舎にやって来た。
「― 大将軍。ご会見できて、何よりでございます。」
夏候嬰が、深く拝礼した。
「あ。どうも、、、」
韓信は、戸惑いながら夏候嬰を迎え入れた。以前、韓信は夏候嬰に対してあなたとは語るに足りないと、暴言を吐いた。丞相に自分を売り込むための、厳しい言葉であった。それ以降、大将軍に昇った韓信は夏候嬰に対して指揮官として向かい合って来た。夏候嬰のみならず、彼は漢軍の全ての将兵に対して指揮官としての立場を貫いていた。
その夏候嬰が、にわかに彼のもとを訪れて来た。これまで彼のところに個人で訪れて来た将吏など、一人もいなかった。
「関中の、美酒を持って参りました。黍を醸して、なかなかにいけますよ。」
夏候嬰は、そう言って侍女たちに持参させた酒壷を韓信に見せた。
「あ。これはかたじけない―」
夏候嬰は、侍女も置かずに一人でいる大将軍の宿舎を見て、予想通りだという表情をした。年齢では、漢王の旧友である夏候嬰の方が多少上であった。遊んでいる年数では、漢王の遊びに付き合っていた夏候嬰のほうが、一回りも二回りも上であった。
持ち込んだ酒が、杯に注がれた。大将軍の宿舎では、滅多にないことであった。
韓信は、夏候嬰に言った。
「漢中で、それがしがあなたに冷たく当ったのは、、、、漢の目を覚まさせたいと思ったからです。それが、漢には必要だったからなのです。」
夏候嬰は、笑った。
「分かって、おりますよ。現に、あなたは漢を目覚めさせた。見事です。それがしは、大将軍に遠く及びません。」
それから、夏候嬰は言った。
「― だが、あなたは危ない。それがしは、実はあなたのことが、心配なのです。」
夏候嬰は少し酒を入れて、配下の身分と人生の先輩との間合いを、酔いによって上手に取った。
夏候嬰は、続けた。
「才あるあなたが、上に立った。それは、この時代では当り前のことです。でもね、ひとたび上に立った者は、才だけではない工夫というものが、絶対必要なのです。私が大将軍のことを危いと感じるのは、ひょっとしたらその工夫をなされていないのではないかと、思うのですよ、、、こんなことは、誰も言ってくれないのでは、ございませんか?」
今夜やって来たのは、夏候嬰の衷心からであった。韓信は、ようやく諸将から畏怖され始めて来たが、かといって彼の評判は、決して良いものではない。それは、彼を弁護する与党が作られていないからであった。非難の波だけがあって、返す弁護の波がなければ、世論の空気は非難の色になってしまうことは理の当然であった。夏候嬰は、韓信に悪い印象を持っていないからこそ、ひとつ腰を上げて彼のところに赴いたのであった。
韓信は、言った。
「危ない、ですか、、、」
彼は、夏候嬰の言わんとしていることが、大体分かった。
― 処世術を身に付けないと、高い地位が持つ諸刃の剣の危なさに、呑み込まれてしまうよ。
実際、今日の漢王とのやり取りは、次々に結果を出す韓信に対する、漢王のちょっとした牽制であった。
才ある臣は、必ず上から疑われる。上の疑心は、必ず下からの讒言を聞き易くする。いったん上の疑心が固まったならば、上に対して弁護する味方がいない者は、窮地に陥る― これが、高い地位の持つ危さであった。その危さから逃れるためには、自ら上に対して慎重に振舞うと共に、下に沸き起こる嫉妬の心を散らす努力をしなければならない。
それが、処世術であった。夏候嬰から見て、大将軍に欠けたものであった。
韓信は、わざわざ来て忠告してくれた夏候嬰に、感謝した。
「ありがとうございます、、、でも。」
「でも?」
夏候嬰は、聞き返した。
― 私は、結果を出すことしか、できそうにありません。
韓信は、そう言いたかった。それが、韓信という人の性であった。
「― いや、何もありません。とにかく、今夜はありがとうございます、、、」
彼は、率直に夏候嬰に謝し、彼の杯に鄭重に酒を注いだ。
夏候嬰は、目の前の才ある男のことが、少し哀れに思えた。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
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第十章 垓下の章



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