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五 静と動(1)

(カテゴリ:楚漢の章

「田栄を、討つ!」

項王は、彭城で諸将に宣言した。
北に向けて兵を進めた蕭公角が、彭越によって惨敗したという報が届いた。
彭越などは、項王の陣営では何ほどの注目も集める存在ではなかった。だが、それはとんでもない認識不足であった。彭越は昌邑の湖賊の身から兵を挙げて戦乱の中で肥え太り、今や一万余人の配下を従える軍閥であった。彼は、漢王が項王に組み敷かれたことを聞き、そして天下の主となった項王から全く存在を無視されて、思った。
― どうやら俺が、ひっかき回すしかないようだな。戦乱だけが、俺に機会を与える。
彼の嗅覚は、田栄を見出した。田栄は、項王と戦うための友軍を欲しがっていた。彭越は、田栄に接近した。田栄もまた、接近した彭越に飛び付いた。互いの利害が一致して、田栄は斉の将軍に任命された。
彭越は、南下して楚領に踏み込んだ。そして、送られて来た蕭公角の軍を散々に破った。彭越の兵たちは、この辺りの土地をよく知っていた。彭越は、戦いやすい地形がどこであるかをすぐに頭に描くことができた。一見平地に見えても、あちこちに沼沢や窪地があって思うように兵が進めないところがある。彭越は敵をわざと危険な土地に誘い込んで、敵が身動き取れなくなったところを伏兵で仕留めるのを得意とした。また、たとえ敗れたとしても、地形を知っている兵たちは何とか逃げることができた。それが、彭越の兵が大負けすることもなく着々と力を得ていった秘訣であった。ただし、限られた地域でしか戦ができなかった。
彭越が楚軍を破り、いよいよ北からの攻撃が明らかとなってきたことで、もはや項王は座視することができなくなった。
項王は、言った。
「糞蝿どもは、この私が叩き落す。諸将、我に従うべし!」
彭城の城外に設けられた陣営の前に、彼のための将軍たちが集まっていた。
任侠を持って鳴る、猛将の季布。
その弟で、やはり任侠を重んずる丁公。
智勇の将と評価の高い、龍且。
桓楚。鍾離昧(しょうりばつ)。
一族では、項声に項它(こうた)、項王のいとこの項荘もいた。
季父(おじ)の項伯も、その中にいた。
彼は、項王に言った。
「― 遺憾ながら、九江王は出陣しないと決めたようだ。来るべき討伐戦のために出兵すべきことを要請していたのだが、病気であるとの返事が戻って来た。申すに、代わりに将軍に兵を与えて参加させるという。」
九江王黥布こそは、項王の最も恃みとすべき男であった。彼の武勇は楚で項王に次ぎ、今や王として大兵を動かすことができる。
項荘が、叫んだ。
「可悪(おのれ)!、、、奴め、大王に向かって仮病を使うか。恩知らずめが!」
しかし項王は、いきり立つ項荘を制止した。
「九江王が、私を裏切るはずがない。これまで、彼と私は死線を越えて共に戦ったのだ。強大な敵に、我らは共に命を燃やして戦い抜いた。その私には、彼の魂が分かる。彼を、疑ってはならない。」
項荘は、やむなく引き下がった。
項伯は、甥の考えを甘いと思った。だが、九江王を信じることがなければ、我らには友軍がいなくなってしまう。それで、今は九江王に甘いのも致し方ないと、心中判断していた。
項王が披露した作戦は、またも余人を驚かせるものであった。
「― 彭城より兵を発し、兵馬は武器だけを携行して急ぎ進むべし。必ず城市を掠めながら進み、よって兵馬の補給となす。我が奥深く進撃すれば、田栄が兵を率いて現れるであろう。奴が会戦を望んだときが、すなわち奴の最後である。」
往く往くの城市を、掠めながら進む。
これは、兵法に言う「重地(じゅうち)」での戦術であった。
自軍の兵を敵地の奥深くまで突っ込ませ、引き返せない地点に追いやる。兵は、帰ることもできずに死に物狂いで戦うより他はなくなる。その勢いを引き出しておいて、敵の城邑を掠め取って補給を行なう。戦意と補給の問題を一挙に解決するための、戦術であった。項王は、斉を叩き潰すためにこの戦術を迷わず採用した。
諸将は、しかし震え上がった。
(また、城を屠るのか、、、!)
項伯は、歯をくいしばった。
(確かに、重地は掠めるべしと孫子も言っているところだが、、、しかし、それは覇王が行なうべき戦術なのであろうか。たとえ戦に勝っても、覇王の評価はさらに悪くなってしまうだろう、、、)
しかし、季父は甥の戦いに対して、もはや何も口を挟むことができなかった。
斉討伐の方針は、決定した。
季節は、秋を過ぎて冬となっていた。
秋の間動かなかった項王は、再び雷電のごとく進むこととなった。
だがその方向は、北であった。
張良子房の読みどおり、項王は西を捨て置いて北に兵を進めることを決めた。漢王からの偽りの意思表明に、まんまと乗せられたとも言える。
亜父范増の、恐れていた事態であった。
しかし、ここまで斉から攻勢を受けてしかも敗北した以上、斉を捨て置くことすら許されなくなってしまった。わが軍で確実に勝てる力は、ただ項王があるのみであった。項王が進むところには必ず勝利があり、そして項王しか勝利を保証できる者はいなかった。
(惜しむらくは、もっと早くに大王を斉に進ませるべきであった、、、)
亜父は、数ヶ月前に項王の出兵を押し留めた判断の誤りを、悔やんだ。
すでに軍議の前に、項王は斉出兵の決断を、亜父と陳平に告げていた。
陳平は、拱手して賛同した。
「― 大王の作戦、お見事でございます。」
亜父は、この男に対する不信感をますます強めていた。
亜父は、項王に言った。
「それがしは、彭城に留まって周囲の変に備えます。老齢ゆえ、厳しいものとなるであろう戦場では足手まといとも、なりましょうに―」
彼は、項王が北に兵を進めることをもう止めなかった。
今や、わが国は項王の天才だけが頼りであった。
天才の力が、状況に勝てば―
今の亜父には、それ以上の展望がありえなかった。
(― もはや、この子が頼りだ。変あれば、すぐに大王に知らせるのが、我が務め。彭城で、死ぬるも致し方、なし、、、)
亜父は、横に座る陳平を向いて言った。
「爵卿― 貴公も、残られよ。残って、彭城を守るべし。」
陳平は、明るく人好きのする顔を亜父に向けた。美顔は一見崩れることもなかったが、彼は心中冷や汗をかいた。
「ここは、、、守れません。むしろそれがしは、何かあれば外に打って出て守りたいと、存じます。」
亜父は、言った。
「そうして、逃げるつもりであるか?」
陳平は、慌てて首を振った。
「と、、、とんでも、ございません!」
だがそのような両者の会話を、項王はすでに聞いていなかった。
彼は、早くも席を立って、愛馬の騅を駆って飛び出していた。
今日も、いま進めている城市の改造の現場に赴くためであった。彼は北に兵を出しても、この工事だけは続けさせるつもりであった。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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