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五 静と動(2)

(カテゴリ:楚漢の章

斉出兵の号令が、項王の軍に隅々まで伝えられた。

項王軍の兵卒たちは、すでに戦に備えて彭城に集結していた。
軍の中核である江東軍の者たちは、郷里に戻る暇すら与えられなかった。
「― 冬衣届く。父母に夥(おお)いに謝す。安楽、明日より大王の卒吏として斉に出す。憾(うら)むこと勿(な)かれ。必ず、功を挙げて父母兄弟の為(た)めに、、、為めに、、、」
軍吏の陣営で、頭を抱えていたのは賀安楽、つまり小楽であった。彼は、読み書きを覚えて若いながらも軍吏に昇っていた。
「あれ、、、どう書くんだっけ?」
彼は、郷里の父母に必ず功を挙げて爵を得ると書きたかったのだが、「爵」の字が思い出せなかった。
郷里の家から子弟を兵卒に送り出せば、郷里からはいろいろと心配して金や衣服など時折送り届けてくれるものだ。家から飛び出すように項王軍に加わった小楽であったが、それでも父母は寒い北の冬を乗り切るために、綿を縫い入れた衣などを運んでくれた。これで、感謝しないわけにはいかない。小楽は、早速返事の手紙を書いていた。だが、そこにはまたもこれから戦に出なければならないことを、書かなければならなかった。
「大変な、作戦だな。また、長い戦になりそうだ、、、」
小楽は、陣中から冬の寒空を見上げた。項王と共に進む以上は、負けるとは思えない。信じて付いて行って、ついに天下の覇王となった項王であった。江東の子弟たちは、皆が項王のことを神のように崇めていた。今度の戦のことを、皆は神に逆らう愚か者への懲罰のように思っていた。
見上げた空から、雪が降りて来た。
小楽は、家から送られて来た冬衣を深く羽織った。韓信に付けられた傷は、若いのですっかり癒えていた。あれから、一年が経った。興奮の渦の中で、多くの期間の記憶が彼の中であいまいであった。そして項王に付いて、いま彭城にいる。だが小楽は、軍吏に志願した。何とも言えない理由であったが、剣や戈を振うことに魅力がなくなってしまった。いま、項王軍では騎兵を増やすことに熱心であった。項王は、自分と共に戦場を駆けることができる騎兵の部隊を欲しがっていた。そのために江東の子弟からも志願者が募られたが、小楽は応募することをやめてしまった。
遠くから、馬蹄が土を蹴る音が聞こえて来た。
項王は、自ら騎兵たちを駆ってしばしば彭城の城外で訓練をしていた。彼がしようとしていることは、小楽には皆目見当が付かなかった。いったい項王がこれから何を望んでいるのかも、小楽には分からなかった。しょせん、天才との差であった。しかし、小楽はかつてのように天才に少しでも近寄って彼の息吹を肌で感じたいと思う心地から、少しく醒めていた。彼は軍吏となって、項王をやや遠くから眺めるようになっていた。
馬蹄の音が、すぐ近くで鳴った。
驚いて小楽が後ろを向くと、知った顔があった。
項王の側近、呂馬童であった。
「― 小楽、やはりお前は、刀筆のほうが似合っているな。」
小楽は、顔を赤らめた。
呂馬童は、江東軍の中で最も馬術に巧みな男であった。騎兵の訓練も、彼が項王と共に指導していた。小楽は呂馬童と近かったが、項王が騎兵を応募した時に応じなかった。それで、申し訳ないと思って小楽は彼のことを最近逃げるように避けていた。
「も、申し訳ないです!」
慌てた小楽は、反射的に謝った。
だが、呂馬童の言葉は小楽にとって意外であった。
「小楽。武勇に引け目を取る必要など、ないぞ。我が軍は、武勇ばかりが尊ばれる。だが、それではいつか行き詰まるだけだ―」
小楽は、軍中一の乗り手の呂馬童が、きっと自分のことを怒っていると思っていた。だが、呂馬童は決してそうではなかった。
呂馬童は馬から降りて、小楽の隣に座った。
ちらつく雪が、乾いて冷たかった。
呂馬童が、言った。
「― ひどい戦だ。これからの斉討伐は。」
小楽が、言った。
「輜重を捨てて行くのは、鉅鹿の時の再来ですね。そうやって、兵を必死に追い込む。楽して、戦はできません。」
呂馬童は、言った。
「だが― 問題なのは、戦って勝てるかどうかだ。」
小男が、叫んだ。
「勝てるでしょう!どう考えても、斉に我らが勝てないはずが、ありません。田栄は、我らの強さを知らないから背いたのですよ。これから思い知る、だけです。」
だが、呂馬童は同意もせずに、淡々と語った。
「鉅鹿の時は、全ての国が我らの味方だった。ただ敵の秦だけを、倒せばよかった。だが、今は田栄を倒しただけでは、治まらない。分け入っても分け入っても、敵がいるだろう。それで、城市を掠め続けることになる、、、釣り出されているのかも、しれない。」
呂馬童の、直感であった。
それから彼は、小楽の方を向いて聞いた。
「― 韓信のことは、まだ怒っているか?」
小楽は、新安の虐殺の現場で、図らずも韓信と斬り合ってしまった。韓信は、小楽に傷を負わせて軍から消えた。あの時のことも、小楽の記憶の中では夢中ではっきりとした話の流れとなっていない。ただ、最後の韓信の恐れに満ちた表情だけが、印象に残っていた。傷の痛みなどは、すっかり忘れてしまっていた。
小楽は、答えた。
「漢に、いるんですよね。あの人は、今、、、」
彼は、韓信が付いた大将軍という位の権力がどのようなものか、想像することもできなかった。江東軍の者たちはなまじ彼のことを知っていたので、韓信が突如として漢の大将軍となったという情報に、首を傾げるばかりであった。
― だから、漢軍は大したことがないのさ。項王が後回しにしたのは、正解だ。
龍且将軍などは、そのように結論して、疑惑する楚軍を鎮めようとした。
彼らには先入主があったために、漢軍がわずかの間に関中を席巻して関東にまで手を伸ばしたという事実を、正しく認識することを忘れてしまった。
だが、呂馬童は言った。
「彼が楚を去ったのが、残念でならない。去らせたのは、残念ながら項王だ。韓信は、やはり大した男であったよ。」
小楽は、ぽつりと言った。
「漢は、、、敵なのでしょうか?」
小楽は、韓信が楚軍を去る際に、彼にひどいことをしたような気分が残っていた。それで、彼が今活躍しているのを聞いて、嬉しい心地がしたのを否定できなかった。だから、彼のいる漢は、楚の敵であって欲しくなかった。
呂馬童は、答えた。
「項王は、漢王のことを信じようとしている。だが、、、、」
「だが?」
続きを急く小楽から呂馬童は顔をそらし、独り言のように続けた。
「― 最大の、敵だ。たぶん、、、」
小楽は、首を振って震えた。それは、寒いからだけではなかった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章