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六 陽中の烏(1)

(カテゴリ:楚漢の章

冬、項王は彭城を発して斉を討った。

覇王の恐ろしさを、今度は斉人が知る番となった。
項王軍の進撃の速度は、斉人の予想をはるかに上回っていた。

― 侵掠することは、火の如し(軍争篇)―

世の兵法家気取りならば知らない者はない、有名な孫子の言葉であった。
孫子を読んだと吹聴する者どもは誰もが、侵略はこのようでなくてはならないと得得として語る。そのくせ、どうすればこのように侵略できるのかを、具体的に想像したことがない。彼らは、ただの教養人である。自ら戦の現場に身を任せ、恐るべき死生の世界の中で相手の予想を越えた創造力を働かせることができなければ、火の如き侵略など実現できるはずもない。
項王は、兵を走らせた。
糧秣の輸送を伴わなかったために、行軍の速度は常識での計算を軽く越えた。各地の斉軍は防戦もできず、敵を捉まえることも能わず、ただ狼狽するばかりであった。
項王は、掠め取った。
城市や邑が夜中に眠っている間に襲い、奪い尽くして屠り尽くした。
そして、その噂が他の地域に広まるよりも速く、兵を前進させた。
こうして、奇襲に次ぐ奇襲を繰り返して、またたく間に済北に進んだ。
済北でも、項王は次々に掠めていった。
朽木を抜くようなその勢いに、このままでは済北の城邑は全て亡んでしまうのではないかと思われた。
項王軍は、城陽の城下にあった。
東に放った斥候が、接近する十数万の軍を発見して戻って来た。
「― 田栄。」
項王は、莞爾(にこり)とした。
あまりの暴虐に、ついに斉王田栄は都の臨湽を発した。兵を整え、王自ら戦場に赴いて来た。
翌日、両軍は決戦の間合いにまで近づいた。
「我に、従え!、、、それだけだ。」
項王は、恐るべき声で総軍を叱咤した。彼の声を聞けば、味方は遠くにありながら項王が側にいることを感じて奮い立った。だが敵の歩兵は恐怖に震えて手から戈を落とし、弩兵は本能的な恐れを感じて弩の照準を大きく外した。
項王は、騅にうち跨った。
「騅よ!お前と私が共にいれば、誰にも負けぬ!」
項王は、馬の首を叩いた。馬は、いななきもせずに冷静であった。
銀色の毛をした、あまりに美しい馬影であった。その姿は、斉兵もまた初めて見る珍しいものであった。
「よし!、、、あの馬を、我が物にしてくれよう。」
田栄が、彼の取り巻きの者どもに、うそぶいた。
彼は、配下に弱みを見せない術だけは、一流であった。自ら戦場に赴いたのも、取り巻きどもに威勢を示すためであった。
「我が舎弟に、伝えよ。項籍の兵を我が本軍が押し留めているところに、背後から撃ちかかれと。観察するに、敵は我が軍に対して圧倒的に小勢。野戦では、数多き側が包めば勝つ。兵法の、教える通りだ。」
田栄は配下の者を遣って、彼の弟で別働隊を率いる田横に伝えさせた。現れた項王の軍が斉軍の数に大きく満たなかったので、田栄は包囲戦を決行することにした。確かに、それは兵法の基本原則であった。
「― 進!」
項王が、叫んだ。
騅が馬腹を蹴られて、棹立ちになっていなないた。
彼の勇姿を見て、項軍の全てが大きく咆哮した。
先頭を駆ける、項王と騅。
必死に従う、呂馬童ら騎兵たち。
その後ろから、江東の子弟ら楚兵が勇躍して従った。
走る項王の甲(よろい)には、鮮やかな錦繍の袍が纏われていた。
出陣に当り、再び虞美人が用意してくれた。
紅地に黒で、面白い文様が大きく縫い取られていた。
「― これを、目立つように纏いなさいよ。あなたに、ふさわしい。」
項王は、不審がった。
赤い真円の中に、黒い鳥の姿であった。
「― 陽中の、烏(からす)、、、」
誰でも知っている、言い伝えであった。天に輝く太陽の中には、火の化身である一羽の烏が住んでいる。陽に焼かれ、陽の中に住んで喜ぶのは、たった一羽きりであった。いかなる鳥も、太陽に近づけばやがて焼かれて落ちてしまう。だから、鳥や虫たちは笑う。誰が、好んで太陽に住もうと思う?地上の近くで低く飛んでいれば、十分に楽しいではないか。陽の只中で熱く焼かれることなど、無意味、無意味なことよ、、、
虞美人は、言った。
「あなたは、進みたいと思うときに進まなければだめだよ。そしてあなたは、進むことができる力を持っている。誰も付いていけない、力を。あなたは、進むこと以外の何も、考えてはならないよ。」
虞美人は、そう言って笑った。
項王も、笑った。
彼女は、戦のことなど知りたくもないと思っていたが、予感を持っていた。
(ひどい危険な未来が、待っている―)
だが、虞美人はそれを男に伝えることがなかった。言っても、無意味だと思った。
(危険を乗り越えられるかどうかは、この子が進むことだけにかかっている。この子がひたすらに進んだときにだけ、私たちの未来は続くことが許される。どうなるかは、わからない。でも、この子はやってくれる!)
彼女は、手ずから項王の大きな胸に、錦繍を回して付けた。
背中に、陽中の烏が浮き上がった。
「― 私は、きっと勝つでしょう。」
項王は、虞美人の心を喜んだ。
今、戦場を駆ける項王の背には、陽中の烏があった。
背後には、午前の太陽が光っていた。
すでにどうと左右に割れた斉軍は、飛び込んだ太陽に急速に焼き尽くされていった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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