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六 陽中の烏(2)

(カテゴリ:楚漢の章

戦の結果は、田栄にとって予想外であった。

寡兵と思って敵を包もうとしたら、すぐに自軍が突き破られた。
これはいけないと、田栄は再び軍を動かして包み返そうと判断した。
だが、判断した時にはすでに遅かった。
寸断された斉軍は、ぶつ切りになった兵の塊ごとに崩れて行った。包囲の網は疎になり疎になり、田栄が慌てて指令を出したらもはや連絡すらできないほど崩れていた。
「― 田栄、死ね!」
恐るべき声が、田栄の耳に響いた。
その声の方向を、田栄は反射的に見た。
錦繍を纏い、銀色の馬に跨った武将の姿が、光を受けて虹のように輝いていた。
「あ、、、見事。」
田栄は、思わず呆けて見とれてしまった。
その直後、彼の登っていた物見の櫓が、大きな音を立てて軋んだ。
下に侵入した江東兵たちが、柱にすがり着いて、切り倒そうとしていた。
田栄は、恐慌に陥って我先に梯(はしご)を駆け下りた。
「あっ、、、お前!」
彼の取り巻きが、主君の逃げ足の速さに呆気に取られた。
直後、櫓が音を立てて崩れた。
上にいた者どもは、空の高みから落下していった。
田栄は、すんでの所で馬に飛び乗って、将兵を全て棄てて戦場から脱走した。
こうして、戦は終わった。
討たれた斉軍の将兵、数限りなし。項王の、完全な勝利であった。
別働隊を率いていた弟の田横は、何もすることができなかった。彼は、城陽の城市に逃げ込んだ。
「我らは、無敵!項王は、無敵の覇王!」
勝利した項軍の将兵は、万歳を唱えた。
項王は、騅にうちまたがって群衆の喝采を受けた。
「― 斉王には、新たに田假を就けるべし。」
彼は、馬上から周囲の騎士たちに申し渡した。
田假とは、かつて国人により斉王に立てられたが、田栄によって引きずり降ろされた男であった。田栄に敗れて楚に逃げ込み、楚が彼のことを庇護していたために田栄は楚との協同出兵を断った経緯があった。項王は、その田假を再び呼び出して、田栄に取って代わらせようとした。
「田假で、斉が治まるでしょうか、、、」
彼の後ろに従う呂馬童が、懸念の意を表明した。
楚帝国は、封建された諸国連合がその国制であった。
秦が行なったような、他国に官吏を送り込んで郡県の組織により支配する制度ではない。
項王が郡県制を嫌ったゆえであったが、技術上の問題としても楚は郡県制を行なうための官吏や法を備えていなかった。関中を棄てて彭城に都したことは、首都からの一元的支配のための知識もまた、顧みず棄てる結果となったのであった。
ゆえに、項王は制圧した斉に王を置いた。問題は、その王が項王の意向どおりに国を治めてくれるかどうかであった。
彼は、田假の不足を自分の力で補うつもりであった。
「田栄とその一族は、棟宇(とうう)を食らう害虫である。ことごとく追い詰めて、根絶やしにしなければならぬ。」
彼は、醒めた声で次の戦役への決意を告げた。
呂馬童の心中に、懸念の暗雲が広がり始めていた。
項王は、続けた。
「田栄と、その弟田横は逃亡している。降った斉兵は、反乱すれば奴らに利用されるだろう― 今のうちに、全て阬(あな)にして殺せ。奴らに、機会を与えてはならない。」
新安の時と同じく、再び降兵を阬とする指令であった。
「― ご意向の、ままに、、、、」
呂馬童は、主君にうなずくばかりであった。
最初の戦は、項王が勝った。全て、予定通りであった。
項王は、田栄とその一族を皆殺しにするために、さらに兵を進めた。
戦場から脱走した田栄は、北の平原(へいげん)にまで逃げ込んだ。項王の軍が、掠めながら怒涛のごとく追いすがって来た。
平原の民は、災厄を逃れる決意をした。
逃げて来た王の首を刎ねて、項王に差し出した。
彼らにとっては、項王も田栄も同様にわざわいの元凶でしかなかった。できれば、両方とも倒れて欲しい。だが王の首を差し出した以上は、何としても項王に勝ってもらわなければ、まだ残っている王の一族からの復讐が恐ろしい。王の首を差し出した平原の民は、祈るように項王の勝利を願った。
だが、項王の平定はこの後思うように進まなかった。
項王は、抵抗する城市を掠め、焼き払った。
ついに、海にまで達した。だが、抵抗は止まなかった。
止まない抵抗のために、項王の軍はさらに深入りしていった。
項王の軍があまりに破壊と殺戮を続けるために、かえって田栄の残党が斉人の期待を集める結果を作り出してしまった。
「― 今ぞ、復讐の時。」
隠れていた田横が、城陽で蜂起した。田栄の忘れ形見の田廣(でんこう)を立てて、項王が遠くで戦っている間に斉王田假に襲い掛かった。
田假はたちまちに敗れ、項王のところに逃げた。斉の平定どころか、項王の軍は敵国の只中で孤立していた。
「役立たずめ、この役立たずめがっ!」
項王は、逃げてきた田假を怒りの余りに、一刀のもとに斬り捨てた。これまで戦った何もかもが、無駄となってしまった。
「城陽に、、、返すしかない。」
諸将にそう告げた項王の声は、震えていた。誰も、自分に付いて来ることができない。真に孤立しているのは、項王の軍ではなかった。項王の魂が、この世界の中で孤立していた。
呂馬童は、項王に言った。
「もう、この戦術はだめです。結果は、全くの裏目に出てしまいました、、、撤退しましょう。」
彼は、西から恐ろしいことが起ろうとしている予感を、ますます感じていた。
だが、項王は呂馬童に、言葉を吐き捨てた。
「黙れ!」
呂馬童は、項王の恐るべき一喝を受け取った。
しかし、受け取った彼の中に生じたのは、恐れではなかった。
(― これしか、進む道はないのか。)
呂馬童は、初めて項王に対して哀れを覚えた。
(この世の、どこにもこんな男はいない。だから、、、この世に容れるところもない。)
陣営の外は、まだまだ肌寒い河北の平野であった。だが日の光は明るくなり、春が確実にやって来たことを目から感じ取ることができた。一つの季節を戦い通して、若者たちは何も得るところがなかったのであった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章