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八 弓箭雑劇(1)

(カテゴリ:垓下の章

漢軍が繰り出した騎兵の正体は、楼煩(ろうはん)の兵であった。

楼煩とは、中国人にとって「胡」と呼ばれる者たちの一部族であった。すなわち、秦地方の北に広がる高原地帯を拠点とする、遊牧の民である。
彼らは、匈奴からの圧迫を恐れて、隣接する漢によしみを通じていた。この広武山の籠城戦にも、服従のあかしとして部族の騎兵が、送り込まれていた。漢軍は、彼らをこの対決に用いた。
籠城戦では何の役にも立たない遊牧民であったが、騎馬の上での戦いとなれば、彼らは中国の兵とは格の違う強さを見せた。楼煩の騎士は、楚の騎士を射殺して、悠然と漢王城に帰還した。
敗れた側の覇王城では、怒りと屈辱が渦巻いていた。
「逃げたふりをして射るとは、、、卑怯な!」
また仲間の一人を失った衝撃で、項王の周囲は怒りと苦悶で、騒然となった。
「ゆ、、、許せんっ!」
「敗れては、ならん!」
「そうだ!、、、絶対、仇を討たなければならない!」
皆が、悔しさのあまりに、涙を流した。
騎士の一人が、手を挙げた。
「大王っ!、、、それがしに、行かせてください!」
手を挙げた彼は、騎上で弓を取って、仲間のうちで随一の者であった。
「おお!行くか。」
「行かずに、おられるか!」
威勢良く応答する彼らに、別の者が割って入った。
「待て。お前といえども、一騎では危ない。こちらも、智恵を使おう。そうだ、今度は、二騎で進み出よう。奴の戦法は、分かった。今度は一騎が突進して奴を追い込み、お前は遠くに控えておいて、奴を射殺すのだ。」
再戦は、決まった。
覇王城から、今度は二人の騎士が、駆け降りて行った。
「出て来い!それとも、臆したか!」
騎士たちは、大音声で呼び掛けた。
やがて、漢王城から、さきほどの楼煩が、単騎で駆け降りてきた。
「一騎だけか。こちらの勝ちだ!」
楚の騎士たちは、ほくそ笑んだ。
囮となるべき騎士が、橋を渡って突進した。
もう一騎は、対岸で逃げる敵への間合いを見計らって、弓をつがえた。
楼煩は、例によって楚兵の突進を避けて、逃げ始めた。
「今度こそ、逃がさん、、、!」
彼らは、必勝の思いを胸にした。
弓をつがえた方の騎士は、間合いを待った。
楼煩が、対岸で攻められて、逃げて行く。射る騎士から見れば、接近して来た。
「よし!、、、」
騎士は、馬を走らせて、楼煩に間合いを詰めた。
彼は、弓を射た。
今度こそ仕留めたと、思った。
飛ぶ矢の音が、空気を突き切っていった。
次の、瞬間。
馬から、落ちたのは―
弓を射た、楚の騎士であった。
楼煩は、対岸の敵が射程の間合いに入る一瞬の前に、すでに矢を対岸に射込んでいた。楚の騎士が射た矢は、楼煩に当らなかった。そして、楼煩が射た矢は、対岸の騎士の心臓を、正確に射抜いていた。
楼煩は、対岸の敵を射殺した後、余裕で振り向いて囮の騎兵をも、射殺した。
結果は、楚軍にとって、恥の上塗りとなってしまった。
またも漢王城は沸き立ち、楚軍を嘲笑った。
覇王城からは、物音一つ、聞こえて来なかった。
楚軍の誇るべき騎兵が、全ての将兵が見る前で、無様な失態をさらけ出してしまった。この結果は、楚軍にとって痛烈に過ぎた。楚の強兵といえども、遊牧民に当れば、勝つことができない。彼らの無敵の神話が、またしても傷付いてしまった。
楼煩ら遊牧民の優れている所は、ただ騎馬の術だけではない。
彼らが農耕民を震え上がらせる強さの源は、騎上から弓を射る、騎射の術であった。
農耕民が好む見栄のよい大弓など使わず、骨や木を貼り合わせて作った小振りな合成弓(コンポジット・ボウ)を抱えて、戦場に出る。
狙う獲物は、駆ける鹿か、飛ぶ大鳥か、それとも敵の兵卒か。
獲物を見つけたら、馬を走らせたままで、弓を構える。足だけで馬に乗って、空けた両の手で小さくてよく弾ける弓を、素早く射込むのだ。慣れた彼らは、馬を走らせながらでも、敵の急所を見事に貫くことができた。この技は、農耕民たちにとって、真似しようとしてもできるものではない。
沸き立つ漢王城のうちで、ひとり冷静に対戦の結果を見ている者が、いた。
「強い。項軍の騎兵すら、楼煩には敵わない。」
軍師の陳平は、楼煩の強さに、目をみはった。
彼は、漢の勝利に喜ぶどころか、かえって思案した。
「これでもし、匈奴と戦うことにでもなれば― 今の中国の兵では、全く勝ち目がない!」
弱小の部族の楼煩の兵ですら、これほどに強い。匈奴の単于が万騎を従えて南下して来たら、その破壊力は、計り知れない。
陳平は、将来を憂えた。
このような中国での戦など、早く片付けなければ危ない。今の中国では、匈奴の兵を、政治と外交をもってかわすより、他はないだろう。そのためには、早く統一しなければならないと、彼は思った。
漢王がこの果し合いを発案したとき、陳平は渋りながらも、許した。
楼煩の兵ならば、失っても惜しくはない。
勝てば、項軍恐るるに足らずという宣伝材料を、得られるだろう。
陳平は、漢王のもとに走った。
彼は、漢王に言った。
「ここまでの対戦で、十分に結果は出ました。我が軍の、大収穫です。」
彼は、漢王が調子に乗ってこれ以上何か企画することを、押し止めようと思った。
しかし、漢王は、対戦の結果に少しも喜んでいなかった。
彼は、むしろ物足りないという表情であった。
漢王は、命じた。
「おい。もう一回、出せ。」
陳平は、漢王の言を怪しんだ。
「何と、、、もう、充分でしょうが!」
不満がる陳平の言を、漢王は一笑に付した。
「まだ、あいつが出て来ないだろうが―」
そう言って、漢王はにやりと笑った。
彼は、侍従する寵童の籍(せき)を呼んで、言った。
「籍。戦鼓を打てと、伝えろ。次こそ、出てくるような気がするぞ、、、」
籍は、可愛らしい声で、かしこまった。
陳平は、漢王が望んでいる光景が分かって、眉を大きくひそめた。
彼は、独語した。
「出てくるわけが、ないだろうが。こんな、ただの余興に、、、」
彼の不満をよそに、漢王はまだ見足りないものを探そうと、城の外に目を凝らし続けた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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