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八 弓箭雑劇(2)

(カテゴリ:垓下の章

嘲笑って騒ぐ漢王城とは対照的に、覇王城は静まり返った。

項王の周囲は、言葉を出せないほどに、打ちひしがれてしまった。
項王の季父(おじ)の項伯が、やって来た。
彼は、甥の項王の前に進んで、言った。
「あれは、楼煩だ。騎射で競って、奴らに勝つことなどできはしない。」
項王は、何も答えなかった。
「――」
黙る甥に向けて、項伯はたしなめた。
「我らは、嵌(は)められたのだ。もう、やめておけ。士気に関わる。」
項王は、答えなかった。
「――!」
項荘が、押し黙る者たちの中から、ようやく進み出て言った。
「大王!、、、次は、私に行かせてください。」
項伯は、そのような彼を叱った。
「お前は、死にに行くのか!」
項荘は、しかし黙っていられなかった。
「死など、恐れません。ただ、このままでは引き下がれません、、、」
項荘は、悔しさのために、泣きに泣いた。
しかし項伯は、さらに叱った。
「お前たちは、武勇しかない。だから、今度も漢の罠に嵌ったのだ。お前たちの暴勇が、楚を追い詰めていることが、まだ分からんのか!」
項伯は項荘に対して叱っていたが、彼の本心は明らかにその主君に、非難を向けていた。
項伯は、歯ぎしりしたい思いであった。
(この甥が、せっかく掴んだ我らの天下を、一人で壊してしまった。全てが、この甥の遊びに過ぎなかったのか。甥の遊びのために、我が項家も楚の民も、滅亡しようとしているのだ、、、)
彼は、もう彼の甥から、すっかり心を離してしまっていた。項伯は、楚と項家を守るために、甥を除かなくてはならないとまで、考えていた。だが、項伯の力では、彼の甥に手を付けることなど、できるわけがなかった。
項伯が怒りの声を挙げていたとき、甥の項王は、まだ黙っていた。
「――!」
彼は、周囲の涙と怒声の中で、泣きも怒りもせずに、じっと座っていた。
奥から、足早に歩く音が、聞こえて来た。
項王のいる室に、女の靴の軽い足音が、息急いた調子で踏み込んだ。
「項羽―!」
高らかな女声が室内に響き渡って、一同は驚いて注目した。
女の声は、言った。
「項羽!、、、何を、黙っているんだ。やられたら、どうしてやり返さない。それでも、覇王なのか!」
虞美人は、この打ちひしがれた覇王城の中で、いま最も気勢に満ちた言葉を、項王に投げ掛けた。
項王は、彼女の登場によって、ようやく口を開いた。
「虞美人、、、!」
虞美人は、言った。
「ここまでなめられて、座ったままで!お前は、とうとう挫けたのか。とうとうあの劉邦に、負けを認めたのか。だったら、お前なんか今すぐ、首刎ねて死んでしまえ!」
項伯は、甥に始終まとわり付くこの女の暴言に、怒りを爆発させた。
「黙れ!、、、この、賤妾めが。口出しするな、下がれ!」
だが虞美人は、項伯に言い返した。
「漢に尻尾を振る、二枚舌の狐めが、、、この場にいるこいつらは間抜けだから、気付いてないけれど、私はとっくにあんたの正体を、知っているんだよ。賤妾ならば、まだ人間だ。だけど、あんたは狐で、人間以下だ、は!」
項伯は、言われて激昂した。
ついに、腰の刀に手を掛けようとした。
そのとき、項王が一喝した。
「― やめい!虞美人。やめなさい!おじ上。」
城の壁を震わせる大音声に、全員の動きが止まった。
項王は、言った。
「虞美人。我が家の年長者を愚弄することは、お前でも許さんぞ。」
虞美人は、不満であった。
「でも、、、!」
項王は、彼女に言わせなかった。
「裏切られるのは、もうたくさんだ。家の者まで、疑いたくない。おじ上。彼女を、許されよ。」
項伯は、甥の愚しいまでの情に困り果てて、黙って手を刀から離した。
それから項王は、虞美人に語り掛けた。
「― 虞美人。」
虞美人は、彼に答えた。
「何だい、項羽。」
項王は、言った。
「私一人で、世の中を変えてみせる。他の誰が反対しようとも、私の力で変えてみせる。その心は、間違っていないだろうか?」
虞美人は、答えた。
「あなた一人じゃ、ないさ。私も、あなたの側にいるよ。」
項王は、莞爾(にこり)とした。
彼は、言った。
「そのためには、私が立って、範を人に示さなければならない。それが、、、宿命なのだ。」
虞美人は、うなずいた。
彼女は、言った。
「行きなさい― 項羽。私の、覇王。」
項王もまた、うなずいた。
項王は、跳ね起きるように、立ち上がった。
彼は、大声一喝、命を発した。
「騅を、出せ!」
周囲の者たちは、電撃に撃たれたように飛び上がって、急いで厩舎に走って行った。
項伯は、仰天した。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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