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八 弓箭雑劇(3)

(カテゴリ:垓下の章

時刻は午後に入り、強い陽射しが、戦場の土を乾かしていた。

覇王城から、軍鼓が轟(とどろ)いた。
楚軍は、いま一度騎士をもって、漢軍と対決を望んでいるようであった。
軍鼓の響きに送られて、甲(よろい)をまとい、戟(げき)を握り締めた一騎の騎士が、戦場に現れた。
「項王、、、?」
「まさか、項王か?」
漢王城の将兵たちは、騎士の正体を、疑った。
手に持つ戟は、人の背の五倍はあろうかという、長大なものであった。常人ならば馬上で持つことなどできるはずがないその獲物を、騎士は片手で軽々と手にしていた。
「― 項王だ!」
乗る馬を見れば、もう疑いようがなかった。
この時代の中国人がいまだ知らない、西洋産の美しく勇壮な、その馬の姿。
毛並みは、白地にさっと薄墨を刷き散らしたかのようで、遠目からは白銀の色に輝いていた。
名馬、騅に跨(またが)って戦場を駆ける、古今無双の勇士。
項王以外の、誰であろう。
やがて、漢王城からも、戦鼓が響き下った。
城中から、楼煩の騎士が、駆け降りて来た。
それも、一騎だけではなかった。
ここまでに楚の騎兵どもを射殺した者に加えて、城内にいた仲間の二騎までが、連れ立ってやって来た。都合、三騎の遊牧兵。これだけの数で連繋して戦えば、彼らは虎や熊といった猛獣でも、殺すことができる。
果し合いの場に自ら出てきた君主に敬意を表して、三騎で現れたのか。
むしろ、遊牧兵たちは、今度の敵が一騎だけでは危ないと見て取って、猛獣と戦う戦法を取ったのであった。彼らは、今度の敵を一目見ただけで、それが猛獣であることを、直感していた。
漢軍からの、軍鼓が演奏を終えた。
しばし、両城の谷間に、静けさが訪れた。
聞こえるのは、吹く風が土を巻き上げる、乾いた音だけであった。
だが静けさは、ほんの一瞬だけであった。
項王が、騅を駆けさせて、猛進した。
楼煩の騎士は、直ちに動いた。
戦場を広く用いるために、二騎が進んで、間を流れる運河に架けられた船橋を、対岸に向けて渡った。
二騎は、両側から敵をぐるぐると取り巻いて、前後左右から矢を浴びせ掛ける役割であった。
残る一騎は、こちらの岸に残って、対岸の敵を狙い打ちする役割であった。
これを、たった一騎で、どうやって打ち払うことができようか?
項王と騅は、両側に現れ出た敵の騎士に、挟まれた。
彼らは、項王を中心に対角線上に陣取りながら、円を描いて駆ける。
敵が一騎を殺そうと走れば、その背中から別の一騎が矢を射掛ける。その逆も、同じであった。しかも、対岸からは敵の動きを観察して、さらに矢を射込む射手が、控えている。いかなる動きも、彼らの手から逃れることなど、できるはずがない。
項王は、騅を一方の騎士に向けて、駆けさせた。
騎士は、逃げようとする。予定の戦法の、うちであった。
好機と見て、背後の騎士が、素早く項王の背中に矢を射込もうとした。
その、瞬間。
項王が、やおら振り向いて、背後の騎士を叱咤した。
「喔喔喔喔喔喔喔喔喔喔喔(おおおおおおおおおお)!」
その巨大な声は、戦場はおろか、取り巻く両城の中にまで、貫いていった。
射ようとした楼煩の騎士が、震えて矢を射る手を止めた。
その声は、猛獣どころではない。
彼らが信じる蒼穹の天帝が地上に遣わす、神の怒りの声― すなわち雷鳴の響きに、匹敵していた。項王を挟む両騎は、神の声に撃たれて、目的を見失った。
まだ冷静さを失わなかった対岸に残る一騎が、項王を射ようとした。
しかし、彼が矢を放った直後―
騎士は、信じられない光景を目にした。
射たはずの項王と騅が、彼の目の前に飛び込んでいた。
天を、駆けたのであろうか。
それとも、神の声に時の流れの感覚を、狂わされたのであろうか。
騎士が項王の姿を見た瞬間が、彼の最後であった。
項王は、戟を振り回して、騎士の首を刈った。
飛び散る鮮血を体に受けて、項王は残る二騎をも屠りに掛かった。
項王は、一騎を追って、駆けに駆けた。
追い詰められた騎士は、逃げながら振り返って、得意の背面撃ちを項王に浴びせ掛けた。
だが、項王はそれを笑いながら、かわしてしまった。
矢は彼の頬をかすめて、項王の頬から一筋の血が流れた。
項王は、血にまみれて、狂喜の表情となった。
彼は、手に持つ長大な戟を、真横に振った。
騎士の顔が、斬られるというよりは、砕け散った。
砕かれた頭蓋骨の音が、不思議なほどに乾いて響き渡った。
残った一騎は、恐れおののいて、項王と戦う意志を失ってしまった。
血まみれとなった戦場を後に、最後の楼煩の騎士は、慌てて漢王城に逃げ戻って行った。
恐るべき楚漢の果し合いは、終わった。
日は西に傾き、両軍は、再び対峙に戻った。
だが、血に染まった戦場を挟んで、楚漢両軍の士気は、逆転していた。
覇王城から、崇拝の歓呼が、爆発した。
「覇王、万歳!」
「覇王、万歳!」
やはり、覇王は覇王であった。
彼ら楚軍は、失いかけていた自信を、取り戻した。
この覇王さえいれば、まだ戦えるかもしれない。
戦況が、どんなに絶望的であっても。
今日の戦いは、しおれ行く楚軍に辛うじて咲いた、明るい花であった。
漢王城は、あまりの光景を見せつけられて、皆が呆然としていた。
さっきまで楚軍恐れるに足らずと思っていた将兵たちは、項王がまだ生きていることを、また思い出してしまった。この神人を、本当に倒すことができるのだろうか。いや、倒してよいのだろうか。漢の者たちは、混乱してしまった。
陳平は、今日の成果が台無しとなってしまったことを見て、苦々しく舌打ちした。
「また、余計なことを、してしまった、、、!」
怨む陳平をよそに、ひとり漢王だけが、喜んでいた。
「さすがだ、項王!、、、またよいものを、見せてくれた!くれた!」
漢王は、これでなくては天下の大芝居は面白くないとばかりに、本日の余興に大満足して、手を打ち鳴らしていた。

          

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第二章 伏龍の章


           
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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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