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九 語る男(1)

(カテゴリ:垓下の章

広武山での対峙は、何月も続いた。

この間、天下の動きは、凪いだように止まった。
漢は、動かなかった。
動かずに、楚が内側から崩れ落ちるのを、ひたすらに待った。
項王の楚は、動けなかった。
同盟国は無く、国は疲弊する一方で、広武山に立つ項王は、彼の武力の支えを時と共に失っていった。
項王のために、斉王韓信を説き伏せに行った武渉は、結局空しかった。
韓信は、必死に説く武渉に対して、言った。
「私は、漢王に大将軍に任じられて以来、漢王と共に天下を平定する道を歩んで来たのだ。その初志を、今さら変えることはできない。」
武渉は、すがりつくように言った。
「漢王が、信用できる人物ですか!、、、いつか、あなたは彼に虜にされるのです。これまであなたがのうのうと生き続けて来られたのは、項王がこの世に存在していたからなのです。項王が亡びれば、次はあなたの番なのですよ、大王っ!」
しかし、韓信は、首を横に振るばかりであった。
「私が、今さら漢と戦って、いったいどうなるのか―」
武渉の言は、今の韓信にとって、耳新しい進言でも何でもなかった。
斉の朝廷を占める高官たちは、王の韓信に入れ替わり立ち替わり、漢と戦うべきことを囁(ささや)いた。
天下を、割ってしまいなさい。
三国鼎立して、楚漢を手玉に取り、わが国を繁栄させるのです。
同盟などは、一時の便宜です。漢一国だけが強くなり過ぎるのは、不祥。斉王はよろしく、時を見計らって漢の背後を蹴飛ばしたまえ。それが、国家の独立を守る、君主の策なのです。
、、、、、、、、、、
韓信は、それらの言を、採ろうとしなかった。
彼は、動くことなく、月日を過ごしていた。
武渉は、空しく戻らざるを得なかった。
楚使が去った後、韓信は一人、王座に残っていた。
彼の家臣たちは、王の不決断に、苛立っていた。しかし、国士無双と呼ばれたこの軍神以外に、王座に立つべき威光を背負った人物はいない。家臣たちは、韓信にひれ伏しながら、彼がどうして自らの野望を求めて進まないのか、不審で不満でならなかった。
「― 楚使までも、斥けられた。」
韓信の耳に、後ろから声が響いた。
韓信は、振り向いた。
「漢の目があるゆえ、表立って楚と結ぶわけにはいかない。しかし、今度の大王の拒絶には、策略も何もあらせられない。これで、いざというときの外交が、また難しくなりました―」
彼の後ろに立っていたのは、いつものように、蒯通であった。
蒯通は、言った。
「だが、ご心配召さるな。大王の逡巡ぶりは、すでに臣にとって折り込み済みのことで、ございます。いずれ大王がご決断なさる時には、この臣がたちまちのうちに天下の情勢を、覆して見せましょうぞ。大王は、思うさまご逡巡なされよ。」
蒯通は、主君の性癖にはもう付き合うより他はないと、韓信に言いたげな調子であった。
韓信は、むっとして、言った。
「私は、逡巡しているのではない!」
しかし、蒯通は、言った。
「逡巡しておられないのならば、今ごろあなたは関中を突いているはずです。これほどまでに攻め易い情勢が出来上がっているのに、動かないとは、、、国士無双の、逡巡としか申しようがございません。」
蒯通は、それだけ言い残して、消えて行った。
韓信は、心中喜ばず、王座を後にした。
彼は、宮城の自邸に戻った。
豪華な居室も、邸内に数多く控える舎人や奴婢たちも、彼の心を楽しませることはなかった。こんなものが欲しかったのではない、と彼は心中で繰り返した。だが、彼が受け取った権力は、彼の心を突き崩そうと、必死にすがり着く者たちを周囲に引き寄せるばかりであった。
斉王韓信の還幸を待つ、姿があった。
「― 大王、お帰りなさいませ。」
婢(はしため)たちを後ろに控えさせて、拝礼したのは、黒燕であった。
韓信は、無言でうなずいた。
それから後、自邸の居室で、韓信は黒燕と共にいた。
黒燕は、にこにことして、今日も冴えない表情を見せて帰って来た韓信のことを、いたわった。
韓信は、彼女に言った。
「黒燕。」
黒燕は、答えた。
「はい、大王。」
韓信は、言った。
「言ってくれ。私の正后に、なりたいか?」
彼がこのようなことを聞くのは、初めてのことであった。
韓信は、思い切って聞いたつもりであった。
だが黒燕は、しばし答えをためらった。
「――」
韓信は、答えない彼女の表情を見て、しょげて言った。
「そうか。すまない、私の単なる気の迷いだ― 忘れろ。」
彼女は、もう言わなければならなかった。
これまで逡巡していたが、遅らせるわけにはいかなかった。
彼女は、韓信の耳元に寄って、囁いた。
「大王、、、実は― 私。」
韓信は、彼女の言葉に、不意討ちを喰らったように、目を丸くした。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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