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九 語る男(2)

(カテゴリ:垓下の章

黒燕の言葉を聞いた韓信は、思い当たるふしが有るやら、無いやらが一緒くたになって、いっぺんに顔を紅潮させた。

黒燕は、韓信に言った。
「申し訳、ございません。以前から、もしやと気付いていたのですが、、、」
彼女には似合わない、うろたえた声で、黒燕は頭を下げて謝った。
韓信にとって、このような事態は、もちろん初めてのことであった。
彼は、意味もなく唸(うな)ったり、首を傾げたりして、忙しくなった。
「確かに、私は以前に、お前と、、、これは、大変なことになった!」
黒燕は、少年のように滑稽な韓信とは対照的に、神妙に頭を下げたままであった。
韓信は、黒燕に向き直り、彼女の肩を持って、聞いた。
「本当に、、、子ができたのか?」
黒燕は、答えた。
「体が、そう教えています。」
韓信は、目を閉じて、小さくため息を付いた。
「ならば、お前を妻にするより、他はないか、、、」
彼は、憂いを含んだ声を、発した。
黒燕は、彼の憂いの真意に、迷った。
「、、、どうして、嘆くのですか?」
彼女は、韓信に、恐れながら聞いた。
しかし、韓信は答えた。
「王座にいると、やはり家庭を持つしかないのか。私はとうとう、追い詰められてしまったよ。」
韓信は、屈託なく笑った。
「、、、本当に、大王らしくないお方ですね。」
黒燕は、ようやく笑い返すことができた。

大王に子ができたということなど、普通の王朝ならば当たり前すぎて、事件にもならない。
しかし、斉王韓信にとっては、一大事のことであった。
蒯通は噂を聞き取って、趙黒燕に面会を求めた。
韓信の自邸にやって来た蒯通は、上座に座る彼女の前に進み出ると、膝を折って平伏した。
蒯通は、言った。
「やがては大王の正后に昇られるお方に拝謁を許されて、この臣蒯通、光栄に存じます―」
黒燕は、蒯通のへりくだり振りに、呆れて言った。
「正后には、ならないよ。私は、もと趙王の養女だ。今の難しい時期に、私が斉王の正后になることは、できない。」
蒯通は、言った。
「それに漢王が、怒りますからな―」
黒燕は、へりくだりながら刺す言葉を吐く蒯通に、むかりとした。
「蒯通、、、!」
彼女の怒る声に惑わされることもなく、蒯通は続けた。
「ゆえに、あなたが正后となられる時は、いよいよ斉が漢と敵対する時と、なりましょう。その時を、あなたもこの臣も、待ち望んでいます。私たちは、斉王を支える同志なのです。」
黒燕は、無言で蒯通に相対した。
彼女は、この不気味な男が自分のところにやって来たからには、きっと策略を持ち掛けて来たであろうことを、確信していた。
蒯通は、黒燕に言った。
「今の時期に、あなた様が大王の妻として現れ出たのは、まことに好都合でありました。それで、この臣蒯通は、噂を聞いて居ても立ってもいられずに、あなた様のところに駆け付けた次第で、ございます。」
黒燕は、言った。
「言いたいことを、言えよ。蒯通。」
彼女に促されて、蒯通は言った。
平伏したままであったが、彼はにわかに、声色を変えた。
「― お前のその子は、大王の子ではないであろう。」
黒燕は、ぎくりとした。
蒯通は、顔を上げることもなく、続けた。
「この私だけは、たばかることなどできぬ。この座から人払いをさせたのは、そのためだ。よいか。絶対に、このことを大王に悟られては、ならぬぞ。」
黒燕は、言葉を返すことが、できなかった。
彼女は、体を小刻みに震わせた。
蒯通は、彼女の沈黙に構わず、語り続けた。
「もしやお前が、良心の呵責に駆られたりして大王に真相を漏らしはしないかと案じて、私は先手を打ちに来たのだ。だが今は、気付かせてはならない。大王は、世継ぎを得たのだ。世継ぎを得た大王に向けて、私は今から縦横家の技をもって、弁術の矢を放つ。大王を動かし、天下の覇者として自立させて、楚漢と相並ばせるためだ。今年のうちに、私は大王を説得して、動かさなければならない。もし今年大王が動かなければ、国士無双韓信の栄光は、幕を閉じる。今年の間だけ、気付かせなければよいのだ。わかったな。」
低い不気味な声で、蒯通は黒燕に迫った。
黒燕は、いつしか立ち上がっていた。
平伏した男と立ち上がった女との間に、長い沈黙が、訪れた。
やがて、女は座り込んだ。
興奮を抑えて、彼女は言った。
「― わかったよ。」
蒯通は、平伏したままで、再び声色を元に戻した。
「それで、結構でございます。臣蒯通は、必ず大王を覇者として、立ち上がらせましょうぞ。」
黒燕は、彼に言った。
「劉邦を、追い詰めて殺しなさい。」
蒯通は、答えた。
「国士無双の武略さえあれば、いずれ、必ず―!」
蒯通は、己の技術の全てを使って、韓信を動かすつもりであった。

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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