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十 乱国の言(1)

(カテゴリ:垓下の章

韓信は、小楽からようやく淮陰の消息について、連絡を得た。

悲惨そのものの屠城の中で、淮陰の民の多くが、殺された。
韓信の知る人々もまた、多くが息絶えてしまった結果を、小楽は伝えて来た。
韓信は、書簡を読みながらうなだれる中で、だがわずかに明るい話題を知ることができた。
「ああ、、、しかし媼(ばあ)さんたちは、無事であったか。」
かつて韓信を食わせてくれた林家の媼さんたちの一族も、追われてひどい目に会った。
だが、彼が知る人たちは、彼が思っていた以上に、強かった。
林家の者たちは、辛うじて生き残ることができた。壊れてしまった淮陰で、今日も歯をくいしばって生きている。
韓信は、決意した。
「― あの人たちを、この斉に移り住ませよう。」
彼は、王となった自分の手元に置けば、彼の知る人たちの命を守ることができると、思った。この戦国の世に、彼女たちのために安全な場所は、もう自分の懐にしかない。そう彼は、思い切った。
韓信は、早速淮陰にいる小楽に向けて、人々に移住を促すように、書いた。
「虐げられるばかりの民にも、逃げる権利だけはある。淮水を下って、人知れず海岸沿いを北に進めば、楚から斉まで逃げられるはずだ。」
韓信は、目算した。
小楽へ渡す書簡を書き終えた韓信のところに、奏者が謁見を求める家臣の消息を、伝えて来た。
韓信は、書簡を侍従に渡して、謁見を許す旨を、奏者に伝えた。
進み出たのは、蒯通であった。
蒯通は、韓信に平伏して、慶賀の言上をした。
「趙氏がご懐妊なさり、ようやく大王は後胤を得られることに、なられました。これぞ斉国にとって、大いなる吉事でございます―」
韓信は、言った。
「なに、人としてごく普通のことだ。それほどに、大騒ぎすることもないさ。」
軽く受け流そうとする韓信に対して、しかし蒯通は言った。
「我ら大王の臣は、ひそかに案じておりました。大王が、もしや社稷を顧みず、王統を継がせたまう大事を、よもや諦めてしまったのではないかと。それでは、斉国にとってあまりに不幸です。大王が、斉国を永久(とこしえ)に継がせる決意を、ついに明らかになされた。これほどの慶事が、我ら仕える臣にとって、、、ありましょうや?」
蒯通は、とうとう声を振り絞って、泣き始めた。
韓信は、まるで芝居のような大声で泣きわめく彼の仕草に、困惑してしまった。
「そのぐらいに、しておけ、、、蒯通!」
たしなめる韓信に、しかし蒯通は泣き止まず、言った。
「今の大王に、申し上げたきことが、ございます。この臣は、我が胸に抱えた思いに心ふたがれて、涙が止まらないのでございます。どうか、臣の尽忠の言葉を、お聞きくださいませ。それでなくては、涙止まりません。止まりません、、、!」
蒯通は、侍従の者たちを斥けるように、求めた。
韓信は、彼の言うとおりにした。
二人きりとなって、蒯通はようやく泣くことをやめた。
彼は、韓信に促されて、立ち上がった。
彼は、いつもの不気味なまでに無表情な顔を、韓信に向けた。涙など、まるで無かったかのようであった。
韓信は、彼の変わり身に、苦笑して言った。
「言いたいこととは、何だ?」
蒯通は、言った。
「前々から、私が思っていたことです。」
韓信は、聞いた。
「思っていたこと、とは?」
蒯通は、言った。
「あなたは、しょせん匹夫です。王などに昇ったのは、行き過ぎです。将来きっと、悲惨な死に方をするでしょう。後継ぎなど、残せるはずがありません。」
韓信は、眉をひそめた。
「、、、私を怒らせようと、しているのか。蒯通?」
韓信の問いに対して、蒯通は答えた。
「そうです。あなたは、君主としては軽すぎる。張良子房が、申した通りです。あなたなどが天下の三分の一を受け取っているのは、天下のわざわいと申すべきです。さっさとこの世から、消えた方がよい。」
蒯通は、ぶしつけに韓信に対して、悪口を並び立てた。
韓信は、口をひしがせながら、黙り込んだ。
蒯通は、言った。
「今の私の言葉で、もし項羽ならば、斬り捨てていますよ。もし劉邦ならば、蹴飛ばして小便を引っ掛けているでしょうな。天下を睥睨する者の覇気は、最低でもそのぐらいなくてはなりません。あなたは、黙っている。だから、あなたの器は、しょせん匹夫です。」
韓信は、苦い顔をして、言った。
「私は、項王や漢王には、とても及ばない。それは、分かっている。」
蒯通は、言った。
「分かっておられるのに、地位だけが天に昇ってしまった。卦面にも、亢龍(こうりゅう)は悔ありと、書かれてあります。亢龍すなわち昇り切った龍には、その先に悔やむべき咎が、必ず待っているのです。今のあなたは、咎が必然となる領域に、自ら踏み込んでしまったのです。もう、逃げられません。今後のあなたには、進もうが退こうが、咎ある将来が待っているばかりです。」
韓信は、彼の判定に、怒りも反論もせず、目を凝らして相手を見続けた。
そんな韓信を見て、蒯通は言った。
「じつに冷静で、あらせられる。その智恵が、これまであなたを、国士無双に押し上げて来た。しかし、これから先は、あなたの智恵で命を救うことは、できませんよ。あなたの人としての器のままに、運命は決まって行きます。あなたは器としては、封候ぐらいがよかった。しかし、あなたの才は、あなたに王の位を与えてしまった。まず、聞きなさい。これから後の、あなたが辿る、行く末を―」
蒯通は、表情を少しも変えず、韓信に語り続けた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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