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十 乱国の言(2)

(カテゴリ:垓下の章

蒯通は、言った。

「思えば始皇帝が倒れた後、後を継ぐべき公子扶蘇が立たず、趙高が愚かな公子胡亥を掌中に握り込んでかれを二世皇帝として騙らせたところから、秦の崩壊は始まりました。じつに秦帝国は始皇帝という空前の君主が一人で創り上げた、帝国でした。熱砂の向こうの西方の地では、すでにいくつもの大帝国が興って諸国を力で治めていると、聞いております。始皇帝は、この中国の地で、初めて大帝国の統治を行なったのです。かれが用いたのは、法による統治。法は、誰にも分け隔てせず、誰にも容赦しない。全土を郡県に分けて郡守・県令を派遣し、末端の官吏に至るまで法によって動かし、法に従って罰する。じつに、素晴らしい着想でした。これほどに広大な帝国で、これほどに多すぎる黔首(たみ)を、君主が手取り足取り細やかに教え導いてやることなど、決してできません。ただ法の条文を全ての官吏と黔首に示して、違背あれば弁明の余地なく、厳罰に処す。始皇帝は、恐怖という毒素だけがわけのわからない末端に至るまで染み透って動かす能力を持ち、法の恐怖を用いることだけが、大帝国を治める唯一の方策だということを、理解していたのです。今後この中国が再び統一された後の時代においても、為政者は始皇帝の用いた法の原理を、変わらず採用することとなるでしょう。」
彼は、縦横家として、弁論に生涯の全てを賭けていた。
縦横家は、兵法家と同じく、始皇帝の時代には用無しの存在とされた。彼も韓信も、国と国との争いがこの世に存在しなければ、一度きりしかない生涯で選び取った自分の道の意味が、なくなってしまう。蒯通は、韓信とその点で、その点だけで、同志であると思っていた。蒯通は、韓信に説いた。それは、自分の生きる意味を賭けた、説得でもあった。
蒯通は、続けた。
「その始皇帝の帝国を、二世皇帝と趙高は、台無しにしてしまいました。始皇帝は、不幸でした。この中国で、最初に帝国を拓いたために、その統治が真理であったにも関わらず、黔首がいまだ不慣れでありました。あと百年も秦の時代が続いていれば、黔首は法の統治にすっかり慣れ切ったことでしょう。しかし、二世皇帝と趙高は、始皇帝を継ぐ才なく、始皇帝の邪悪な性だけを見習って、反乱の渦の中に亡ぼされました。しかし秦が亡びるためには、もう一人の前代未聞が必要でした。その前代未聞が、あの奇跡の覇王、項羽でした。項羽のことは、あなたもよくご存知でしょう。秦が反乱により亡んだのは、不慣れゆえの必然でした。しかし秦を亡ぼしたのは、突如として現れた、英雄でした。秦には章邯という名将が現れて戦線を立て直したにも関わらず、項羽はそれをたった一人の力で、破り去ってしまいました。結果、項羽はその報いを得て覇者となり、項王に昇ったのです。」
蒯通が語ったことは、聞いている韓信が、最も詳しく知っていることであった。反秦の蜂起が始まり、秦が倒れるまで、わずかの期間であった。そのわずかの期間に、項王は前代未聞の武勇を示して、神人となった。彼が覇王となったのは、当然の結果であった。
蒯通は、さらに続けた。
「しかし、項王は、統治することができませんでした。彼の才は、しょせん破壊だけでした。覇王の時代は、たちまち反乱となりました。劉邦の時代が、始まったのです。劉邦は、項王とは別種の天才です。彼じしんには、何の才も徳もない。沛出身の、粗暴な野人に過ぎません。ただ、彼は己が勝つために、才ある者たちを寄せ集める嗅覚に、誰よりも優れています。劉邦は、項王に付いて行けない者たちを己のもとに糾合し、己の勝利のために最大限働かせました。こうして、劉邦は漢王となり、項王の失策によって身を大きく育て、ついに覇者となったのです。張良子房や軍師陳平が、漢王を助けました。そして― 大王、あなたが、最も漢王を大きくしたのです。天才的な武略の男、国士無双韓信は、まことに漢王の最大の恩人です。」
天下の情勢を語る彼の話は、しだいに核心に近づいていった。
蒯通は、韓信に言った。
「現在、天下の争乱は、終わろうとしています。反秦の蜂起から始まった大混乱は、結局統一帝国の復活によって、元に戻ることでしょう― あなたは、素直にも漢王に味方して、項王を亡ぼします。そして、あなた自身も、必ず漢王に亡ぼされます。こうして漢が、めでたく秦帝国の後を受け継いで、統一するのです。この道はもう、決められたことです。項王を亡ぼしてからあなたが抵抗しようとしても、もう手遅れのことです。」
蒯通は、冷え冷えとした目で、韓信を見詰めた。
蒯通は、張良子房と同じく、彼に決断を迫っていた。
だが、蒯通の促す決断の道は、張良の示す道とは、逆であった。
言葉を返さぬ韓信に対して、蒯通は語り続けた。
「あなたは、いまだにご自分の将来について、思慮を巡らせない。もう争乱の終幕は、間近に迫っているのです。いま、両雄は広武山で対峙戦を続けていますが、今年のうちに項王の楚は、戦を続けることが不可能となります。そのとき、漢は楚に和睦を持ち掛けて、楚は受けざるを得ないでしょう。自分の国の事情を省みずに戦に明け暮れて来た項王は、ついに現実を知らされて、膝を屈するのです。膝を屈したが最後、漢は時を措かずに、とどめを刺すでしょう。このとき、漢王はあなたに出馬を要請します。あなたは応じ、漢王と共に項王を亡ぼして、そしてご自分の首を締めるのです。いったい項王が亡んだ後で、あなたが生き残れるとでも、思っておられるのですか?あなたの名声を、漢王がこのまま許すとでも、考えているのですか?あなたは、ご自分でも認める通り、漢王にも項王にも及びません。今あなたが王として居座っていられるのは、ひとえに項王と漢王が対峙して、食い合っているからです。その片方が潰えたとき、あなたの命運も尽きるのです。だが、そうなってはならない。あなたは、時に逆らってでも、この戦乱を続かせなければならないのです。それしか、あなたが生き延びる道は、もう残されていないのです!」
蒯通は、韓信に言い放った。
恐るべき、言葉であった。
韓信は、言った。
「蒯通、、、お前は、つまり私に戦をずっと続けろと、言いたいのか。」
蒯通は、答えた。
「その、通りです!」
韓信は、首を横に振った。
「そのようなことが、できるか。」
蒯通は、言った。
「全て、あなた次第です。あなたは、漢王と項王のどちらにも、勝たせることができるのです。そして、どちらにも勝たせないことも、できるのです。国士無双は、そこまで巨大な存在なのです。」
蒯通の言葉は、続いた。

          

各章アーカイブ

           
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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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