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十一 真の英雄(1)

(カテゴリ:垓下の章

蒯通は、言った。

「もしあなたが、これから項王に味方したら、どうなると思いますか?、、、その結果は、項王の勝利、漢王の滅亡となります。これは、確実です。」
蒯通は、静々と歩きながら、その理由を語った。
「― なぜならば、漢王の側には、あなたを上回る戦の天才がいません。張良子房も、陳平も、しょせんは軍師に過ぎません。彼らは謀略を練ることができても、実戦で勝つことはできないのです。そして他の漢軍の武将は、あなたもご存知の通り、取るに足りません。漢王配下の武将は、どれもこれも王に引きずられてにわかに出世した、凡人に過ぎない。天才のあなたの爪の先の価値すら、ありません。そのあなたが漢王を裏切って、項王に味方したら、どうでしょうか。項王と、国士無双。二人の戦の天才が、漢軍を攻めるのです。結果は、明らかなのです。漢軍に、勝ち目は全くありません。」
いま二人がいる韓信の居室の壁に、中国全土七国の地図が、掛けられていた。
蒯通は、その地図の前に、歩み寄った。
彼は、地図の中央に書かれている広武山の地点を、どんと叩いた。
「いま漢王が、広武山で圧倒的優勢をもって対峙することができているのは、北に控える趙国を、掌中に収めているからです―」
蒯通は、広武山から自らの指を、北の方角にずらした。
中央に流れる河水(黄河)を挟んだ北に、広大な趙の版図があった。
蒯通は、趙を指して、言った。
「漢王は、趙王張耳の息子に、得意の催眠術を使って逆らえないようにしています。漢は、北の大国の趙を抑え込んでいるゆえに、南の広武山で、対峙することができています。側背から攻め込まれる憂いが、ないからです。趙への締め付けは万全で、漢の支配は抜かりないように見えます。しかし!」
蒯通は、掌で地図をばん!と叩いた。
「しかし、もしあなたがいざ漢王を討つと決められたならば、情勢は必ずや一変します。趙王の昔からの家臣たちは、内心で漢王に憤っています。彼らは、国を騙し取った漢王に対して、いつか必ず一矢を報いたいと、望んでいるのが本当のところです。もしあなたが漢王に背いたならば、彼らは必ず趙王の息子を突き上げて、あなたに呼応する道を進ませることでしょう。趙王の息子の張敖は意志薄弱で、しかし大王のことを密かに慕う心があります。突き上げられれば、必ず転ぶことでしょう。こうして、趙は漢を裏切ります。そして趙が裏切ったならば、もう漢軍は中原を維持できなくなるでしょう。漢軍は函谷関の向こうに退かざるをえなくなり、死にかけていた楚は、息を吹き返します。後は、秦が滅んだ道と、同じです。攻める側には、あなたと項王の二人の、戦の天才がいます。漢の側には、誰もいません。やがて漢は二人の天才の武略によって手玉に取られ、函谷関すら維持できなくなり、関中からも追い出されて、朧西の奥深く、戎狄(じゅうてき)の住まう辺地にまで、逃げていくことでしょう。こうして、漢は滅亡するのです。どうですか?私の申すことに、誤りはないでしょう?」
蒯通は、にやりと笑った。
韓信は、笑う気にもなれなかった。
韓信は、得意げにしゃべる蒯通に対して、厳しい声で言った。
「お前は、ひどいことを言う。そんな戦は、たとえ、できるとしても!」
蒯通は、しかし彼の言おうとした言葉の、機先を制して、言った。
「することは、できない。大王。あなたは、そう言いたがっている。しかし、兵法家ならば、できるという事実に逸らさず目を向けた上で、論を進めていかなければなりません。戦場での一切の可能性を見切った上で、判断するのが将の道。よろしく、我が言葉を、続けて聞きたまえ。」
蒯通は、にやりと笑う表情を、さらに緩くした。彼の弁舌は、いよいよ調子付いた。
「そして、その逆も然り。漢王が項王を亡ぼすためには、大王、あなたの力が絶対に必要なのです。」
彼は、その理由を言った。
「なぜならば、戦場において、項王の名声は百万の軍をも上回るからです。いま、漢軍は広武山で、項王と戦うことを必死に避けています。それは、項王がいざ戦場で怒りに燃えて突撃しただけで、漢軍は戦わずして砕け散るからです。かつて無敵を誇った秦の章邯を亡ぼし尽くし、彭城で諸国全てを挙(こぞ)った五十六万の敵を葬り去った、項王の力。それは、いまだ将兵の脳裏に、恐怖として染み付いています。漢軍は、いま項王を追い詰めながら、最後のとどめを刺すべき決め手を、持ち合わせていません。その決め手は、いま漢軍の外にあり。それが―」
蒯通は、真正面に、向き直った。
「国士無双、韓信!、、、この男の名声は、項王を殺す!」
彼は、言った。
「すでに、国士無双の名声は、項王を翳らせるところまで至っています。大王、あなたが戦場に立てば、項王は敗れます。ゆえに漢軍は、国士無双韓信を、戦場に出さなければならないのです―」
蒯通は、目の前の英雄に、拝礼した。
彼は、すでに巨大な存在に、成長していた。
最大の問題は、その巨大さをいまだに受け止めていない、英雄自身であった。
蒯通は、言った。
「お分かりですな。あなたは、もうご自分の進退次第で、天下をどうとでも動かすことが、できるのです。そして、それほどの巨大なあなたが、自ら戦を終わらせようとしている。戦を終わらせた後に、あなたは亡びるのです。どうして、楚にも漢にも味方せずに留まり、自らを亡ぼさない道を、歩まれないのか、、、?」
韓信は、深深と頭を下げる蒯通に、ますます苦い表情を向けた。
彼は、聞いた。
「― どうして、私が亡びると、お前は言うのか。」
蒯通は、答えた。
「大王。あなたは、真の英雄ではないからです。」
韓信は、聞いた。
「真の英雄?、、、英雄とは、何だ。」
蒯通は、頭を下げながら、言った。
「英雄とは、自らの心のままに翼を広げ、天に向けて駆け昇り、空の高みに恐れぬ大胆と、高みに昇れず地にはいつくばる者を踏みにじって顧みぬ残虐とを、持ち合わせた者でなくてはなりません。あなたは、高みを恐れています。それは、あなたに欠けているものが、あるからです。」
韓信は、そう言った彼に、聞いた。
「― 何が、欠けているというのか、、、」
蒯通は、答えた。
「果てしなき、夢。飽くなき、欲。夢あるいは欲があってこそ、人は大胆かつ残虐に、なれるのです― いずれも、あなたにはありません。」
蒯通は、続けた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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