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十一 真の英雄(2)

(カテゴリ:垓下の章

「大王。残念ながら、あなたには、追い求める夢が、ありません。そして、飽くこと無き欲望も、持ち合わせておられません。それが、あなたの器です。あなたは、ただの人としては、まことに結構なお方です。だが、悔やむべきかな。あなたは、いま斉王として、天下の三つの覇者の一角を占めてしまっている。あなたは、いざ項王と漢王に相対すれば、亡ぼされるばかりです。なぜならば―」

蒯通は、続けた。
「項王。かれは、破天荒です。彼のような英雄は、できればこの世に出てこない方が、よかった。彼は、人間を越えた、神人です。人間の世界を見る必要もなく、自分だけの夢を、追いかけています。そのために、ひどい破壊をこの世に撒き散らしています。しかし、彼は真の英雄です。彼は、己の夢のために、振り返りません。己の道を阻む者を葬り去って、顧みないのです。ゆえに、彼は真の英雄です。どんなに、残虐であっても。」
蒯通は、さらに言った。
「次に、漢王。かれは、郷里の草莽から現れ出た、野人です。漢王のような欲深い心を持った農夫は、郷里に掃いて捨てるほどに、偏在しています。ただ漢王は、その群れの中から、ついに成り上がった唯一の者となりました。かれは、郷里の民を脅しすかして顔役となる手練手管を、そっくりそのまま天下取りに用いました。そうして、ついに覇者となったのです。彼は、この中国の大地の子です。彼の天下取りは、土から生え育ったがごとくに、地に足が付いています。漢王は、己の身を太らせる欲のままに進み、今後も進んで行くことでしょう。ゆえに、彼もまた真の英雄です。どんなに、人を踏みにじっても。」
蒯通は、顔を上げた。
彼は、韓信と視線を合わせて、言った。
「この二人に比べて、あなたは、この先に進むべき道を、ご自分で拓かれる力がありません。ご自分で道を拓かれる力がなければ、道を阻む者を殺す決意も、できようがありません。英雄たちは、天下の一角を占めたあなたを、道を阻む者としていずれ殺そうとするでしょう。それは、天下の必然なのです。真の英雄でないあなたは、真の英雄たちと相対すれば、必ず殺されるのです。ご自分の危さを、思い知りたまえ。あなたは、英雄でもないのに、英雄たちと天下を分けているのですよ―」
韓信は、黙って彼の言葉を、聞き続けた。
蒯通は、韓信を見た。
彼は、この男が、とても天下の覇王になることなどできないだろうと、持ち前の人物観から推察した。
(この男は、しょせん天が遣わした、天下平定のための道具にすぎないのであろう。天下を手中に収めることは、この男にとって途方もないことだ―)
それが、彼の観察であった。彼がいま王として天下の一角を占めていることなど、不自然でしかない。このまま時勢が進めば、収まるべきところに、収まっていく。つまり、この目の前の男は、出過ぎた罪を得て、亡ぼされるより他はない。きっと、ない。
しかし、蒯通は、時の流れにも、もしかしたら天の意図にでも、断固として逆らうつもりであった。この目の前の男と、そして自分が、生き延びるために。
蒯通は、やにわに韓信に、歩み寄った。
彼は、韓信の手を取って、囁(ささや)いた。
「だから― 大王。生き延びる道を、選びましょう。あなたも私も、この戦乱さえ続けば、生き延びることができるのです。頼みます。この時代を、終わらせないでください。あなたが動かなければ、この世から統一を遠ざけることが、できるのです、、、」
蒯通は、呆けたような顔をして、微笑んだ。
韓信は、その表情に、薄気味悪さを感じた。
彼は、蒯通の手を振り払って、言った。
「― お前のために、天下を戦乱に続けることができるか!」
しかし、蒯通は、韓信の怒りなどに、ひるまなかった。
「何を、おっしゃる。私たちは、同志ではありませんか。」
韓信は、怒った。
「お前と私は、同志などではない、、、!」
蒯通は、言った。
「同志です。私たちは、この世の凡人とは違う、天才なのです。それも、項羽とか劉邦などというわけのわからぬ輩に決して従うことができない、頑固な天才たちなのです。私たちは、戦国でしか生きられない、天才同士ではありませんか、、、!」
彼は、再び韓信の手を取った。
韓信は、その不気味さに、戦慄が走った。
蒯通は、韓信の目を捉えて、囁き続けた。
「― 我らのような天才が輝ける時代は、もう終わろうとしているのです。あなたも私も、天才ゆえに、この世を思いのままに動かすことができました。でも、もう天才の時代は終わろうとしているのです。私たちの素晴らしい時代が、終わってしまうのです。これから、退屈な時代が始まります。これから来る時代は、本当に退屈な時代です、、、私や、あなたのような人間が、これから後の時代は、人に気を使いながら、世間の中でしか生きていけない時代が、やって来るのです。私やあなたにとっては、耐えられない時代が、とうとう始まるのです。しかもそのような時代が、これから延々と続いていくのです、、、だから、それを引き伸ばさなければならない。私たちが生きている、時代だけでも!、、、負けてたまるか!愚か者に頭を下げて、なるものか!」
蒯通は、韓信の手をなぜながなら、語った。
その語り口は、いったい誰と話しているのか、まるで分からないかのようであった。
韓信は、呆けたように語る蒯通の目を、とても直視できなかった。
「蒯通、お前は、どうして私に付きまとうのか、、、!」
韓信は、目を背けながら、言った。
蒯通は、言った。
「申して、おるでしょうが。あなたと私は、同志なのです。庶民として虐げられて生きることに我慢できず、朝廷で嘘を付いて世渡りをすることに我慢できず、そのくせ自ら君主になるのは、途方もない。こんな我らが生きることができるのは、今の混乱の時代をおいて、他はないのですから、、、」
蒯通は、さらに韓信に詰め寄った。
それは、韓信とまるで一体となろうかと、望んでいるかのようであった。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章