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十二 乱世、それだけが(1)

(カテゴリ:垓下の章

蒯通は、韓信にしなだれ掛かった。

譬えではなくて、彼は本当に酌婦のごとく、韓信に寄り添い、顔を近づけた。
蒯通は、夢見心地であるかのように、語った。
「― この斉国は、大王が保ちさえすえば、強国になります。楚にも漢にも、負けない強国として復活します。もとから、強い国だったのです。田氏支配の二百五十年が、この国をすっかりだめにしてしまいました。田氏は、自分の一族の繁栄だけを考えて、国を腐らせました。各地に田氏の盗賊領主を跋扈させ、官民ともに疲弊した末に、秦に亡ぼされました。だが、もう田横のような盗賊の生き残りも、すでに去りました。病巣を取り除かれた斉は、大王のもとでにわかに活気付くことでしょう。斉国は沃野千里、農業の技術は中国で最も優れ、豊かな税収が確保できます。商工も盛んで、銅鉄車馬の製造にも、不足しません。この民の潜在力を、大王が公正な仕置をもって用いれば、斉はやがて楚漢を寄せ付けぬ力を貯えることと、なるでしょう。こうして、三国鼎立の条件が整います。勢力は均衡し、統一は遠のくでしょう。やがて、この中国は、分裂と戦争が常態となるのです。理想が、訪れるのです。大王の、御心次第なのです、、、」
韓信は、蒯通の本心を見せ付けられて、戦慄するばかりであった。
ようやく、頬を寄り添わせるほどに近寄る男の、あまりの気持ち悪さに正気に戻った。
「それが、お前の理想なのか。蒯通、お前は、やはり弁士にすぎない。戦が、どれだけ悲惨なものか、分かっていない!」
彼は、蒯通の頬に平手を押し当てて、引き離そうとした。
蒯通は、押されて顎をしゃくり上げながら、それでも語り続けた。
「戦国時代こそが、理想!、、、戦国時代だから、あなたのような兵法家も、私のような縦横家も、生きる場を与えられたのです。そんな時代の子のあなたが、どうしてそれをお分かりにならないのか、、、」
韓信は、叫んだ。
「― 離れろ!」
彼は、蒯通を思い切り突き離した。
蒯通は、力任せに押されて、転ぶように大きく後じさった。
だが、彼は怯(ひる)まなかった。
まるで海草のごとく、ゆらめいた腰を再び前に戻し、韓信に向き直った。
彼の目は、ますます虚ろな輝きを増した。
蒯通は、押された勢いでずり落ちた冠を再び元に戻しながら、韓信の前で膝を折った。
「世継ぎを得たあなたが、どうしてご自分の幸福を、考えられないのですか!あなたは、このままではご自分と、ご自分に近い人々を不幸としてしまうのです。そのような天下の平定に、何の意味があるのですか。むしろ戦が続いた方が、よいのです。たとえ天下が統一されたとしても、いずれ亡ぼされるあなたのことなど、やがて民はすっかり忘れてしまいます。後世の者は、あなたに感謝など、絶対にしません。真に偉大な者は速やかに忘れ去られて、権力を握った大嘘付きどもを、民は後々まで崇めるのです。民とは、さほどに愚かなのです。いや、それが、この世の人間の、法則というものなのです。私は、悔しくてならない。悔しくて、ならない!、、、だから、私はあなたに少しだけ厚顔になって欲しいだけなのです。大嘘付きより、ずっとましだ!」
彼は、ぬかずいた。
額を、床になすり付けて、韓信に言った。
「頼みます。大王、頼みますよ。私などは、どうせつまらない弁士です。ずっとこの頭であれやこれやと考えて生きて来ましたが、私一人では何もできない。私には、力がないんです。しかし大王、あなたには、力がある。あなたは、何せ国士無双だ。軍を率いれば、無敵の力を出すことができる、、、だから大王、あなたは、私たちの希望なのです。これから先の暗黒の時代を絶対に認めたくない、私たちのような者たちにとっての、希望なのです。このままでは、思想も、勇気も、自由も、情愛すらも、この国から消え去ってしまいます。統一の後には、人間は要らないのです。統一された政府は、お上に従順な奴隷だけを望み、作り上げることを始めるのです。そこに、人間が生きる余地はもうない。あなたは、人間だ。私も、人間です。私たちは、死んではならない!」
蒯通は、何度も額を打ち据えて、韓信に叩頭した。
それから、大声を挙げて、泣き始めた。
彼は、涙に曇った声で、韓信に叫び掛けた。
「あなたは、君主だ。どうかほんの少しだけ、厚顔になられよ。それが、君主の座なのです。頼みます、皆のために、どうか頼みます、、、」
蒯通は、泣き続けた。
もとより、全て計算のうちの演技であった。韓信を脅し、意表を付いて心を揺さぶって、その隙に真理を流し込む。薬は、やがて効いてくるはずであった。
だが、それでも彼の嘆きには、縦横家としての本心が込められていた。彼は、この後に来るべき時代のことを、とうに分かり切っていた。そして、その時代に彼や韓信のような型にはまり切らない異才が、必要なくなってしまうことも。彼の嘆きは、心の底からのものであった。
「――」
韓信は、ついに黙り込んでしまった。
蒯通の語る内容は忌まわしかったが、これまで彼は韓信の側にあって、全ての事実は彼の言った通りに、進んで来た。
韓信は、黙っていた。
このときの彼は、黙ることしかできず、固く目を閉ざした。
蒯通は、韓信が沈黙する間、ずっと泣き続けた。
韓信は、ようやく口を開いた。
「もうよい!、、、蒯通!」
韓信は、泣く蒯通に、命じた。
「やめろ!お前の言葉は、もう十分だ、、、下がれ!」
彼はそう言って、追い払う仕草をした。
主君に揺さぶりを掛けることに成功したと思った蒯通は、後は時を置くだけだと、思った。
彼は、再び顔を上げた。
蒯通は、たちまちに涙を忘れ去った。
彼は、冷徹な表情に様変わりして、言った。
「分かりました。これで、私は引き下がることに、致します。ですが、最後に申し上げたい。今の大王を、譬えるべき言葉を、臣の口から申すことを、お許しください。」
韓信は、許した。
「申せ。お前の、言いたいことを。」
蒯通は、韓信に許されて、言った。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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