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十二 乱世、それだけが(2)

(カテゴリ:垓下の章

「いずれも、巷間誰でも知る、俚諺(ことわざ)です。私は、それを譬えに引きたいと、存じます。」
蒯通は、言った。

「一つ。天が与えて取らざれば、反(かえ)りてその咎(とが)を受けるべし。時至りて行なわざれば、反りてその殃(わざわい)を受けるべし― 意味は、お分かりですな?」
韓信は、言った。
「言うまでも、ないことだ。郷里の民ですら、その言葉を使う。」
蒯通は、続けた。
「二つ。騏驥(きき)の跼躅(きょくちょく)するは、駑馬の安歩するに如かず、孟賁(もうほん)の狐疑するは、庸夫(ようふ)の必至なるに如かず― これも、使い古された、言葉でありましょう。」
孟賁とは、伝説の勇士。成語や鄙言での、人気者であった。その孟賁ですら、狐疑逡巡すれば、断固として決行する凡庸な者に、制せられる。千里を駆けるべき駿馬ですら、跼躅(あしぶみ)していては確実に歩む駑馬にすら、追い越される。だから、人は迷ってはならない。ただそれだけのことを言った、譬えに過ぎない。
韓信は、言った。
「すり切れたような、言葉だ。」
蒯通は、言った。
「こう言った俚諺は、日常の生活で、何かにつけて軽軽しく用いるものです。しかし、郷里の庶民が溺れるつまらぬ争いと、天下を分ける大きな決断との間に、どれだけの違いがあるでしょうか。あなたは、難しく考え過ぎる。難しく考えるから、己のことを置いてけぼりにして、遅疑逡巡するのです。それは、郷里の間抜けな青年が遅疑逡巡して、全てを失い笑い者となる様と、何ら変わらない。この蒯通は、あなたを見るに見かねて、こうしてあなたの側で進言申し上げているのです。あなたは、笑い者となるには、あまりに惜しい。」
そう言って、蒯通は、軽くため息を付いた。
韓信は、言った。
「蒯通。」
声を掛けられて、蒯通は答えた。
「は。」
韓信は、彼に言った。
「― お前の言に、感謝しよう。お前の申すとおり、お前と私は、同志なのかもしれない。」
蒯通は、韓信の意外な言葉に、興じて答えた。
「ほほう、大王。お認めに、なってくださいましたか。」
韓信は、微笑んで言った。
「ああ。確かに、同志だ。お前も、私も―」
お前も、私も。
しかし、韓信は、そこから後を、言いかけて止めた。
言葉を切った韓信に対して、蒯通は聡かった。
彼は、韓信に、残りの言葉を言った。
「― 欠けている。」
韓信は、うなずいた。
「そうだ、、、そうなのだ。」
彼は、優しい目となって、蒯通に語り掛けた。
「そうなのだ。私もお前も、自分のことについてはからっきし智恵が働かない。世の人に比べてすら、欠けている。だが、それが私と、お前だよ、、、お前は、己を捨てて、私を埋め合わせようとしているのだ。」
蒯通は、ふっと優しく、微笑んだ。
彼には珍しい、素直な微笑みであった。
彼は、言った。
「― それが、私の存在理由なのです。この世は、私たちにとって、まことに生き難い。」
二人の間には、瞬間、奇妙な親密感が流れた。
それは、瞬間でしかなかった。
所詮、韓信と蒯通は、親密に分かり合うことなどできない。だが二人とも、卓越した智と力を持って、ゆえにこの世の中で持て余されていることだけが、両者の絆を作っていると言えるかもしれなかった。
蒯通は、言った。
「大王、いま一つの俚諺を、申し上げたいと思います。これを知ることができるかどうかが、あなたの今後の分かれ目でしょう。」
韓信は、言った。
「言え。」
蒯通は、言った。
「三つ。勇略、主を震わせる者は身危く、功、天下を蓋(おお)う者は、賞せられず―」
韓信は、蒯通の言葉を聞いて、かつて黒燕が自分に語った言葉を、思い出した。
蒯通は、続けた。
「それが、あなたなのです。まさに、今のあなたなのです。どうか、今は思い切って、ご自分の運命について、思いを馳せてごらんなさい。」
韓信の口から、思い出された言葉が、流れて出た。
「高鳥尽きて、良弓蔵(かく)され―」
彼は、ひとりでに語るように、続けた。
「狡兎死して、走狗烹(に)らる、、、そのようで、あるか。」
そう言って、彼は、物思いに沈んだ。
蒯通は、言った。
「その、通りです。」
韓信は、それ以上口を開かず、内に籠るように、物思っていた。
「― あなたは、走狗となってはならない。狡兎を、殺してはならないのです。」
蒯通の言葉を、彼は上の空で聞いた。
「― 楽に、なりなさい。あなたと、あなたの周りの者たちのことを、考えたまえ。決断すべき時は、過ぎ去ろうとしています、、、」
蒯通の言葉をよそに、韓信は、深く沈み込んでいた。

          

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第五章 楚滅秦の章


           
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