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十三 龍虎相対す(1)

(カテゴリ:垓下の章

韓信は、いまだ動かない。

そして広武山もまた、動かなかった。
項王は決戦を望むも果たせず、楚軍は日毎に瘠せ細って行った。
漢軍は、項王を戦わせず、自ら腰折れる時を、慎重に待ち続けた。
漢王城の一室で、二人の策士が、話し込んでいた。
「― 和睦を為すためには、大王の一家を、楚から取り戻さなければなりません。」
そう語ったのは、陸賈であった。
彼は、漢王のために諸国に使いすることを、ずっと職分としていた。彼と同じ役目を果たしていた酈生は、すでに倒れてしまった。だが陸賈は、今でも漢王に、変わらず仕え続けていた。
陸賈は、語った。
「今や、項王を滅ぼすことは、天下の最大事ではありません。むしろ項王を平らげた後に、天下をいかに経営すべきかを、遠く慮(おもんぱか)るべきです。大王は、やがて国の鑑(かがみ)として、民草に範を示す存在とならなければならない。そのためには、国事にかまけて父祖を見捨てるような不孝を、大王に行なわせてはなりません。いま、大王の父君であらせられる太公は、呂后陛下と共に、項王のもとに人質として留め置かれています。和睦するならば、かの方々を、必ず取り戻さなければならないでしょう。」
聞いていたのは、陳平であった。
陳平は、この陸賈という人物が、語れば語るほどに、気に入るようになった。
陳平は、喜んで言った。
「陸生。あなたは、ただの弁舌の士ではないな。あなたとは、語るに値する。」
陸賈は、真剣な面持ちで、言った。
「無駄な賛辞などは、結構。我ら智者は、常に天下のためだけに、その智を用いるべきなのです。」
陳平は、私欲も満々な彼に向けられた陸賈の微妙な風刺を、苦笑いしながら受け取った。
だが、それでも彼は、陸賈に気持ちよく言った。
「とにかく、あなたの言う通りだ。もはや漢は、戦後のことを考えるべき時に、差し掛かっている。天下静謐の後に民を治める原理は、もはや武力でなく、道徳となることでしょう。戦が尽きた後の世の民は、忠孝悌信の徳行によって導かれなければ、ならないのです。それを漢王朝の高祖たるべき大王が、不孝の傷を受けることは、後世のために断じてなりません。大王は、何せ国の父ともなられるお方ですからな、、、」
陸賈は、上機嫌でぺらぺらと語る陳平に対して、真面目な顔のままで、言った。
「― あなたも、徳行を積まれるがよい。それが、時代です。」
陳平は、してやられて、鼻白んだ。
彼は、言った。
「私に、徳行は無理です。残念ながら。」
彼はそう言って、へへへと笑った。
陸賈は、言った。
「ご自分でできないことを、民にさせようとしている。あなたは、、、」
陳平は、意地悪い顔をして、言った。
「そして我らが大王にも、徳行はできません。ええ、絶対に、無理です。だがそれで、よいのです。それが、政治です。あなたは、そこまで分かっておられる。だから私は、あなたを評価するのです。」
陸賈は、それ以上何も言わず、陳平に軽く拝礼した。

こうして、表面上では何事も起っていないかのように、楚漢両軍は対峙し続けた。
その、何十日目かの、ある日。
漢王城内の陣営では、爆笑が湧き起っていた。
漢王の下に集った配下たちは、今日届けられた書簡を読んで、その幼稚な内容に、皆笑わずにはいられなかった。
書簡は、項王から漢王に向けた、挑戦状であった。

― 天下匈匈として数歳なるは、徒(いたずら)に吾ら両人を以ってのみ。願わくは、漢王と挑戦して、雌雄を決せん。徒に天下の民と父子を苦しめること、毋(な)からしめんと為すなり。

諸将は、笑いながら言った。
「項籍、、、!とうとう、追い詰められたか。よりによって、大王と決戦したいだとよ。まるで、小児のたわごとだ!」
まさに、一笑に付すべき、愚かな項王の挑発であった。
誰が、あの神人の挑戦を受けて、対決しに出て行くであろうか。
敵将と雌雄を決して、斬って勝とうという発想は、項王らしいと言えば項王らしい。だが、今は、単に笑いを誘うだけであった。
笑い転げる諸将の前で、漢王は、膝を付いて座っていた。
彼もまた、口元で笑っていた。
しかし、彼は、嘲る周りの諸将のようには、届けられた書簡を笑っていなかった。
「― 哀れな、奴だ。」
漢王は、微笑みながら、つぶやいた。
彼の隣に侍る夏候嬰が、言った。
「― 追い詰めたのは、あなただ。」
漢王は、言った。
「そうだな、、、狡(ずる)い奴だ。」
夏候嬰は、言った。
「致し方、ない。」
漢王は、言った。
「致し方、ないのか?」
夏候嬰は、呆れた調子で、言った。
「今さら、何をおっしゃる!、、、ここまで他人を追しのけて踏み上がった、あなたが。項王も、張耳も。そして、韓信もまた、あなたのために、、、」
夏候嬰がそこまで言ったとき、突然城外から恐ろしい音声が、飛び込んで来た。
すぐにその音は、人間の声であると知れた。
「出て来い!、、、漢王、我が前に出よ!」
驚くべき、大絶叫であった。
声は、漢王城の壁という壁を、震わせて響いた。
「臆するな、漢王!、、、それでも、天下を割る、覇者であるか!」
諸将は、互いに目を合わせた。
項王の声が、漢将たちから、笑いをもみ消してしまった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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