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十三 龍虎相対す(2)

(カテゴリ:垓下の章

焼け付くように、陽が高い。

すでに、季節は夏を迎えていた。
広武山に築かれた漢王城の、はるかな崖下から、声は聞こえて来た。
「我が前に、出て来い― 漢王!」
騅にうち跨った項王が、漢王城の真下にまで寄せて、城内に向けて大音声を浴びせ掛けた。
「― 出て来い!」
彼の叫びに時を合わせて、城内から弩(いしゆみ)が発射された。
項王は、手に持つ戟で、飛び込んで来た矢を、軽く払いのけた。
続いて、数十本の矢が、次々と項王に向けて集中した。
応じた項王の動きは、人間とは思えなかった。
彼は、長大な戟を、まるで柳の枝を振り回すかのごとくに、軽々と振るった。
彼を襲った矢は、蚊が叩かれたかのごとくに、全て地面に落ちて行った。
城内の将兵は、項王の武勇のほどに、驚き呆れるばかりであった。
敵の矢を落とし終えた項王は、絶叫した。
「漢王!我が前に、姿を見せろ。覇者ならば、私と会せよ!」
項王は、漢王に挑戦を呼び掛けた。
城内からは、何の動きもない。
「― 漢王!」
項王が、いま一度叫んだとき。
城内から、人の声が降りて来た。
「項羽、、、久しぶりだな!」
漢王の、声であった。
「漢王!いたかっ!」
項王は、彼の姿を探した。
しかし、どこにも見えない。
漢王の声だけが、聞こえて来た。
「項羽。残念だが、俺は、お前と一騎打ちなどできない。」
たぶん漢王は、どこかに隠れて、音響の効果を用いて、項王に聞かせているのであろう。
項王は、どこにいるのかもわからない漢王に向けて、言った。
「なぜ、戦えない!」
漢王は、言った。
「簡単な、ことだ。」
項王は、聞いた。
「なぜだ!」
漢王は、答えた。
「俺は、馬に乗れない。」
漢王はそう言って、うわははははと笑った。
漢王は、項王に言った。
「俺は、馬の背にすら乗ることができない。夏候嬰に運転させて、馬車を足とするだけよ。そんな俺が、名馬にうち跨ったお前と、一騎打ちなどできるわけがなかろう。俺と話を付けたいのならば、せめて馬から降りて、俺の前に来い。明日、もう一度来るがよい。お前と、天下のことを、存分に話してやる。」
そう言って、彼は、わっはははと笑った。
項王は、怒りに燃えながら、承知した。
「よいだろう― 明日、もう一度来る!」
彼は、そう言い残して馬首を返し、自分の覇王城に戻って行った。
陽が落ちて、夜が過ぎた。
再び陽が昇って、次の日の朝となった。
覇王城の兵たちは、起きるや否や眼下の光景が一変したことを見て、驚いた。
漢王城と覇王城を隔てる鴻溝の谷底が、流れを大きく太らませていた。すでに谷底は、満々と水を湛えた湖水のようであった。
漢軍が、夜のうちに鴻溝の下流を、堰き止めてしまったのであった。
船の用意などない項軍は、これで漢軍に向けて兵を寄せることが、できなくなった。
朝日にきらめく水の上を、たった一枚の桴(いかだ)だけが、覇王城に向けて進められて来た。
― 項王。独りで、これに乗って進むがよい。
漢王は、そう彼に言おうとしていた
漢軍は、項王に何もさせないために、彼の動きを封じたのであった。
項王の配下たちは、漢王の無礼に、憤った。
項王は、しばし黙っていた。
いとこの項荘が、怒って彼の前に進んで、言った。
「このような申し出を、大王が受ける必要など、一切なし、、、無視しましょう!」
しかし、項王は、肯かなかった。
「もとより、本日私は、漢王とどうしても語らなければならないと、心に決めていた。奴が私の前に出て来るならば、私は行かなければならない、、、私は、これより進む。荘よ、予定のとおり、例のことを用意しておけ。」
項荘は、項王の命に対して、顔を曇らせた。
「大王、しかし、あのことは、、、」
項王は、首を横に振った。
「卑劣には、卑劣をもって報いなければならないのだ、、、やむをえない。」
だが、項荘は、躊躇(ためら)った。
「大王までが、卑劣となる必要はありません、、、」
項王は、首を大きく横に振った。
「言うな― 私は、進む!」
彼は、漢が用意した桴に、飛び乗った。
彼の巨体が乗ると、大きくもない桴は、水の上で揺らいで覆ってしまいそうになった。
かくして、項王は、漢王城に向けて、独りで進んで行った。
桴は、水の中途で進みを止めた。
前方には、すでに鉄鎖が何重にも、張り巡らせてあった。
ここから先に近付こうとしても、もう近寄れない。
項王は、前方の城に向けて、大絶叫を投げ掛けた。
「漢王、、、我が前に、出て来い!」
天地を震わせる叫び声が、何度も何度も四方に響いて、跳ね返った。
城門が、ばたりと開いた。
増水した流れによって、城門の真下にまで、水が近づいていた。
兵卒に担ぎ上げた輿(こし)が、前に進んで来た。
輿は、桴に乗っただけの項王に合わせて、わざと粗末な作りであった。まるで、山賊の長が現れたかのような、風情であった。
「望み通り、出てきてやったぞ― 項羽!」
漢王は、項王と目を合わせて、莞爾(にこり)とした。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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