焼け付くように、陽が高い。
すでに、季節は夏を迎えていた。
広武山に築かれた漢王城の、はるかな崖下から、声は聞こえて来た。
「我が前に、出て来い― 漢王!」
騅にうち跨った項王が、漢王城の真下にまで寄せて、城内に向けて大音声を浴びせ掛けた。
「― 出て来い!」
彼の叫びに時を合わせて、城内から弩(いしゆみ)が発射された。
項王は、手に持つ戟で、飛び込んで来た矢を、軽く払いのけた。
続いて、数十本の矢が、次々と項王に向けて集中した。
応じた項王の動きは、人間とは思えなかった。
彼は、長大な戟を、まるで柳の枝を振り回すかのごとくに、軽々と振るった。
彼を襲った矢は、蚊が叩かれたかのごとくに、全て地面に落ちて行った。
城内の将兵は、項王の武勇のほどに、驚き呆れるばかりであった。
敵の矢を落とし終えた項王は、絶叫した。
「漢王!我が前に、姿を見せろ。覇者ならば、私と会せよ!」
項王は、漢王に挑戦を呼び掛けた。
城内からは、何の動きもない。
「― 漢王!」
項王が、いま一度叫んだとき。
城内から、人の声が降りて来た。
「項羽、、、久しぶりだな!」
漢王の、声であった。
「漢王!いたかっ!」
項王は、彼の姿を探した。
しかし、どこにも見えない。
漢王の声だけが、聞こえて来た。
「項羽。残念だが、俺は、お前と一騎打ちなどできない。」
たぶん漢王は、どこかに隠れて、音響の効果を用いて、項王に聞かせているのであろう。
項王は、どこにいるのかもわからない漢王に向けて、言った。
「なぜ、戦えない!」
漢王は、言った。
「簡単な、ことだ。」
項王は、聞いた。
「なぜだ!」
漢王は、答えた。
「俺は、馬に乗れない。」
漢王はそう言って、うわははははと笑った。
漢王は、項王に言った。
「俺は、馬の背にすら乗ることができない。夏候嬰に運転させて、馬車を足とするだけよ。そんな俺が、名馬にうち跨ったお前と、一騎打ちなどできるわけがなかろう。俺と話を付けたいのならば、せめて馬から降りて、俺の前に来い。明日、もう一度来るがよい。お前と、天下のことを、存分に話してやる。」
そう言って、彼は、わっはははと笑った。
項王は、怒りに燃えながら、承知した。
「よいだろう― 明日、もう一度来る!」
彼は、そう言い残して馬首を返し、自分の覇王城に戻って行った。
陽が落ちて、夜が過ぎた。
再び陽が昇って、次の日の朝となった。
覇王城の兵たちは、起きるや否や眼下の光景が一変したことを見て、驚いた。
漢王城と覇王城を隔てる鴻溝の谷底が、流れを大きく太らませていた。すでに谷底は、満々と水を湛えた湖水のようであった。
漢軍が、夜のうちに鴻溝の下流を、堰き止めてしまったのであった。
船の用意などない項軍は、これで漢軍に向けて兵を寄せることが、できなくなった。
朝日にきらめく水の上を、たった一枚の桴(いかだ)だけが、覇王城に向けて進められて来た。
― 項王。独りで、これに乗って進むがよい。
漢王は、そう彼に言おうとしていた
漢軍は、項王に何もさせないために、彼の動きを封じたのであった。
項王の配下たちは、漢王の無礼に、憤った。
項王は、しばし黙っていた。
いとこの項荘が、怒って彼の前に進んで、言った。
「このような申し出を、大王が受ける必要など、一切なし、、、無視しましょう!」
しかし、項王は、肯かなかった。
「もとより、本日私は、漢王とどうしても語らなければならないと、心に決めていた。奴が私の前に出て来るならば、私は行かなければならない、、、私は、これより進む。荘よ、予定のとおり、例のことを用意しておけ。」
項荘は、項王の命に対して、顔を曇らせた。
「大王、しかし、あのことは、、、」
項王は、首を横に振った。
「卑劣には、卑劣をもって報いなければならないのだ、、、やむをえない。」
だが、項荘は、躊躇(ためら)った。
「大王までが、卑劣となる必要はありません、、、」
項王は、首を大きく横に振った。
「言うな― 私は、進む!」
彼は、漢が用意した桴に、飛び乗った。
彼の巨体が乗ると、大きくもない桴は、水の上で揺らいで覆ってしまいそうになった。
かくして、項王は、漢王城に向けて、独りで進んで行った。
桴は、水の中途で進みを止めた。
前方には、すでに鉄鎖が何重にも、張り巡らせてあった。
ここから先に近付こうとしても、もう近寄れない。
項王は、前方の城に向けて、大絶叫を投げ掛けた。
「漢王、、、我が前に、出て来い!」
天地を震わせる叫び声が、何度も何度も四方に響いて、跳ね返った。
城門が、ばたりと開いた。
増水した流れによって、城門の真下にまで、水が近づいていた。
兵卒に担ぎ上げた輿(こし)が、前に進んで来た。
輿は、桴に乗っただけの項王に合わせて、わざと粗末な作りであった。まるで、山賊の長が現れたかのような、風情であった。
「望み通り、出てきてやったぞ― 項羽!」
漢王は、項王と目を合わせて、莞爾(にこり)とした。
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