«« ”十三 龍虎相対す(2)” | メインページ | ”十四 氷と炭と(2) ”»»


十四 氷と炭と(1)

(カテゴリ:垓下の章

両者は、しばし語らず、目と目で対峙した。

項王は、おもむろに口を開いた。
「― 漢王。私と、一対一で戦え。」
漢王は、にやりとして答えた。
「項羽。俺と、智恵で戦ってみろ。できまい。それが、お前の限界だ。」
項王は、やにわに懐に手を入れた。
戟の切っ先から外した、矛の刃をまさぐり出した。
項王は、漢王の胸を目掛けて、隠しておいた刃を、すかさず投げ付けた。
それと同時に、漢王の前に、上から鉄の板が一挙に降ろされた。
投げられた刃は、厚い鉄板を貫くことができず、甲高い音を鳴らして、跳ね落ちた。
その後ろから、笑いながら語りかける声が、聞こえて来た。
「今日は、俺と天下のことを、話しに来たのだろうが!、、、俺を降伏させたいのならば、言葉で勝ってみろ。俺は、お前と腕の力で戦うことなど、やらん!」
遮る鉄板が、再び上に吊るし上げられた。
漢王は、輿の上で不敵に笑いながら、再び項王と目を合わせた。
「せっかく、出て来てやったのだ。我らの再会を、存分に楽しもうではないか、、、?」
漢王は、このとき彼の真の顔を、項王に見せた。
それは、かつて共に秦と戦っていた時代に、項王が義兄と慕った年長者の顔では、なかった。
また、あの鴻門の会において、項王にひたすら謝罪をした神妙な面持ちからも、遠く離れていた。
いわば、大人の真の顔。
子供が大人に夢見る幻想と、大人が子供に付く嘘を、すっかりぬぐい去った後に残る、世間智と生存欲を顕わにした、狡猾かつ非情な表情であった。
項王は、漢王と目を合わせて、歯ぎしりをした。
彼は、咽の奥から、うめき声を出した。
「漢王。お前さえ、いなければ、、、」
この男さえ、いなければ―
天下は、項王のものであったはずだ。
彼は、章邯率いる無敵の秦軍を、打ち破った。秦帝国を葬ったのは、全く項王の功績であった。
なのに、先に咸陽を取ったのは、なぜかこの男であった。
項王は、この男に、まんまと先を越されてしまった。その事実が尾を引いて、後に漢に天下奪取の口実を与えてしまった。
項王は、攻め寄せた五十六万の漢軍を、ほとんど一人の力で滅ぼした。天下は、項王の武勇に、またも打ち震えた。漢王は、ほうほうの体で逃げ出して行った。
なのに、今、この広武山で、この男は余裕の表情をして、自分の前に座っている。
項王は、秦軍も漢軍も、恐れるに足りないと思っていた。
その彼が、この目の前の男ごときを、倒すことができない。
この男が持っていて、項王が持っていないもの。
それは、必死に生きる者たちの裏をかいて進む、大人の狡猾さであった。
強者の弱みを掴んで後ろから突き転ばす、政治とかいう盗賊の、技術であった。
項王は、そのためだけに、今や追い詰められようとしていた。
項王は、この男が、はっきりと自分の敵であることに、思い至った。
項王の、敵であり。
韓信の、敵でもあり。
始皇帝の敵でもあり、李斯の敵でもあり、章邯の敵でもあり、その他、全ての命を燃やす魂の、敵であり―
彼らの敵たるべきものの象徴が、今、目の前にいた。
項王は、悔しさに震えて、両の目を閉じた。
それから、かっと目を見開いた。
「お前の卑劣を、私もお前に返してくれるわ、、、!」
彼は、後ろを振り向いた。
後方の覇王城に向けて、大音声を放った。
「― 出せ!」
漢王城の将兵たちは、何が起るのかと、覇王城の方向に注目した。
見ると、覇王城の城壁を乗り越える程に高く組まれた櫓(やぐら)が、運び出されて来た。
櫓の最高所には、兵卒によって縛り上げられた、二人の姿があった。
漢王城の将兵たちは、あっ!と声を挙げた。
漢王は、項王の後ろの光景を見て、言った。
「あれは、、、俺の家族だな。項羽っ!」
漢王は、項王を睨み付けた。
項王は、言った。
「人質だ。やむをえない。」
櫓の上に引き出されて来たのは、漢王の父の劉太公と、呂后にまぎれもなかった。
二人は、彭城の戦で漢王と引き離され、呂后は義父を守って共に項王の人質に落ちた。項王は、これまで両者を可能な限り、鄭重に扱って来た。しかし、項王は、いま漢王の前に、人質を引きずり出して見せた。
二人は、巨大な俎(まないた)の上に、座らされていた。
櫓の下では、大きな鼎が用意されて、薪が積み上げられていた。それは、人質を烹(に)て殺す準備に、他ならなかった。
気の弱い老人の太公は、恐怖のあまりに歯の根も合わず、震えていた。
その隣に縛られている呂后は、言葉も発さずに、はるか前方を見据えていた。
彼女は、さすがに気丈であった。
彼女は、これまで項王に命乞いなど、一切して来なかった。
そして今、彼女はとうとう、殺される窮地に、陥ってしまった。
呂后は、大王の正妻でありながら、ここまでも不幸続きである自分に、体の内から怒りが湧き上がった。
「こんなことで、死ぬ―」
呂后は、独語した。
「夫には裏切られ、子は夫に愛されず、夫の家族を守りながら、こうして死んでいく、、、何にも、残らない。まるで、愚かな人生!」
彼女は、死んだ後に呪い殺したいと、思った。
夫と、そして夫の国までも。
しかし、彼女は、死んだ後にも自分が魂魄として残るなどとは、到底信じる気にも、なれなかった。死んだら、もうおしまい。怒りと空しさで、彼女の心の中が、ぐるぐると渦を巻いた。
彼女らを、漢王はじっと遠目で、見続けた。
漢王は、項王に聞いた。
「― 俺の親と妻を、どうするつもりだ。」
項王は、言った。
「生かしたければ、今すぐ降伏しろ。」
漢王は、輿の上で立ち上がって、項王と鋭い視線を交わした。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章