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十四 氷と炭と(2)

(カテゴリ:垓下の章

漢王城の中では、軍師の陳平が、事態の推移に困惑しきっていた。

彼は、頭を抱えて、言った。
「何ということだ、、、衆目の前で、太公が取引の材料に、なってしまった!」
漢王が、項王の挑発にまたしても応じようとしたとき、陳平は主君を強く諌めた。追い詰められた項王に機会を与えることなど、どうして今の漢軍が為す必要があるだろうか。
しかし、漢王は陳平の諌言を、聞かなかった。
彼は、項王の挑発を受けて立った。
陳平は、人に聞こえない声で、独りうめいた。
「せめて、項王が勝手に太公を殺してくれたら、よかったのに、、、」
彼は、軍師の本音を、口走った。
苦悶する陳平の後ろに、近づく者があった。
張良子房で、あった。
張良は、陳平の肩をぽんと叩いて、言った。
「― 見守って、やれ。何はともあれ、当世の両雄たちだ。」
陳平は、張良の方に振り向いて、言った。
「これで、何もかもおしまいになるかもしれない、、、そんな危ない事態を、何でわざわざ招くのか。私には、分からない。結局、私は彼らのことが、何も分からないのです。」
張良は、言った。
「そうでなければ、あの二人が天下を争うことなど、できない。君の理解など、越えたことだ。漢王に天命あるならば、きっと切り抜けるであろうよ。」
彼はそう言って、わずかに口元で、微笑んだ。
それは、時代の運命に対する、いくぶんかの皮肉な感情を含ませた、笑いであった。
しかし言われた陳平は、とても両雄の対決を笑って見る気には、なれなかった。
その、両雄。
漢王は、立ち上がって項王と、睨み合った。
項王の狼の目を、漢王はまともに受けた。常人ならば、とても目を合わせることなどできない、恐ろしい獣の視線であった。
項王は、もう一度言った。
「降伏すると、言え。お前の家族を、烹(に)殺すぞ!」
漢王は、目を逸らした。
それから、口元を歪めた。
彼は、く、く、く、と笑い始めた。
彼は、わざとらしい大きなため息を吐(つ)いて、口走った。
「― 子供はこれだから、困る。他媽的(くそばか)!」
漢王は、項王を罵った。
罵られた項王は、激怒した。
「他媽的とは、なんだ!」
漢王は、せせら笑った。
「他媽的だから、他媽的よ。昔、お前の望みで、俺とお前は義兄弟の誓いをしたことを、忘れたか!」
漢王は、ずっと昔に二人の間で起った出来事を、持ち出した。
あの頃、確かに項王は漢王を年長者として慕い、項王は望んで漢王に対して、共に秦を倒す義兄弟の誓いを為した。だが、それはずっと前、秦を倒す以前の、出来事であった。今の二人は、もうあの頃とは何もかもが、違っていた。
だが、漢王は、昔のことを、今この場で思い出させた。
彼は、衆目に聞こえる大声を張り上げて、言った。
「俺とお前は、共に秦を倒すことを誓い合って、義兄弟の契りを交わした。それは、お前が望んだことだ。俺とお前は一家となって、共に天下を分けることを、誓い合った―」
漢王は、このとき役者となった。
衆目に対して理非を示すために、彼は自らの体を、武器と化した。項王の武勇に対して、彼は持ち前の狡知をもって、相対した。
漢王は、声を張り上げた。
「だから、俺の親は、もうお前の親だ。なのにお前は、他人の親を殺すのに飽き足らず、とうとう自分の親まで烹殺すのか。おやおや、それはこの世間に通用しない、非道だぞ!、、、項羽、義兄として情けないわ。お前は、昔っから、ちっとも変わらん。今になっても、やっぱり子供であったわ、他媽的!」
漢王の痛烈な罵りに応じて、漢軍から、どっと爆笑が起った。
王の実父を処刑しようという、この残酷にして緊迫すべき場面。
漢王は、それを衆目を引きずり込んで、たちまちに茶番に変えた。
これぞ漢王の、才能であった。
項王は、愚かな悪少年が舞台で冷やかしを受けるかのように、突っ立たされてしまった。
この未曾有の英雄が、ただの世間知らずの無軌道な子供として、凡人たちから嘲笑われてしまった。
項羽は、怒り心頭に発した。
「― 世間など、私は知らない!」
漢王は、怒る項王を前にして、不敵に笑った。
「子供が、責められて怒るでないわ、他媽的!」
項王は、激しく怒った。
「まだ、言うか!」
漢王は、言った。
「お前のような子供には、こう言うしかない。他媽的!」
漢王に冷やかされ、漢軍から罵声を浴びせかけられて、ついに項王は決した。
彼は、叫んだ。
「― 烹る!」
大音声に、見守る者たちは、一転して固唾を飲んだ。
漢王は、項王と向き合い、対峙を続けた。
彼は、項王に聞いた。
「烹るか。」
項王は、すさまじい目つきをして、答えた。
「烹る!」
ぎりぎりと、項王は噛み付く視線を、漢王に向けた。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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