怒りに燃える項王を、しかし漢王は突き転ばした。
漢王は、真面目ぶった顔で、諧謔を放った。
「ならば、烹た後が勿体無い。俺にも一杯、羹(あつもの)を分けろ。」
聞いた瞬間、項王の表情は、顎が外れたようになった。
観衆から、再び爆笑が起った。
項王は、怒りを取り戻そうとして、混ぜ返した。
「、、、何ということを、言うのか!」
漢王は、真面目な顔をして、答えた。
「せめてもの、親孝行だ。」
漢軍は、やり込められた項王の姿を見て、ますます大笑いに笑った。
項王よりもよっぽど非常識な暴言を吐いているにも関わらず、世間は漢王を喜び、項王を嘲った。
人をからかう話術においては、項王は漢王の敵ではなかった。
項王は、激昂して、振り向いた。
「― やれい!」
彼は、覇王城に向けて、大絶叫した。
しばし、全員の目が、対岸に集中した。
しかし―
何も、起らなかった。
項王が命じたにもかかわらず、城内の者たちは、動かなかった。
烹るための鼎は、こちらから見える位置に、据え付けられていた。
しかし、積まれた薪に火が点けられることは、なかった。
覇王城内は、項王の命に従わなかった。
それは、季父(おじ)の項伯が、項荘ら若者たちを説得したからであった。
「人質を烹るなど、してはならない。項王は、最近ようやく殺戮から目を覚ましたばかりではないか。それを、敵の最も近しい家族を殺したなどとなれば、今度こそ我が軍の権威は、地に落ちてしまう。こんな命令は、王のためにも聞いてはならない、諸君!」、
項伯は、若い兵卒たちに、諄諄と説いた。
項王の策を内心で快く思わなかった項荘らの若者は、ここぞとばかりに理をもって説いた項伯の言葉に、しゅんとなってしまった。
項伯は、彼らに説いた。
「いま太公と呂后を烹れば、ますます我が軍の不利となるばかりだ、、、頭を冷やせ!」
項伯は、すでに張良子房を通じて、漢に内通していた。
彼は、漢のために、本日漢王の家族を殺そうとした項王の計画を、自ら動いて阻止した。張良子房が、項王の意図を知って、彼に密かに命じていたのであった。
こうして、項王の命令は、聞かれなかった。
やがて、人質の二人も、櫓から丁重に降ろされてしまった。
命拾いした呂后は、安堵することもなく、厳しい目をしたままで、兵卒に伴われて降りて行った。
彼女は、降りていくとき、夫のいる方向を、見ようともしなかった。
自分の城の様子を見た項王は、怒りと驚きで、唇を震わせた。
それを見ていた漢王は、口を歪めて笑っていた。
危ない賭けであったが、彼の軍師は、やはり仕事をしてくれた。
自分一人しか頼る者がいない項王には、できないことであった。
「それが、俺とお前の差だ、、、俺は、この世の異才どもを、使いこなす。」
漢王は、く、く、く、と笑った。
項王は、漢王に振り向いて、言った。
「お前ごときに、人がどうして従うのか!」
漢王は、言った。
「お前には、死ぬまで分からない、世の中の理(ことわり)だ。」
彼はそう言って、さらに笑った。
項王は、笑う漢王を、怒りを込めて罵った。
「― 悪人め!」
漢王は、すかさず言い返した。
「悪人は、お前だ!」
彼は、懐から、一片の帛(きぬ)を取り出した。
漢王は、衆目に聞こえるように、宣言した。
「諸兵百官、聞くがよい!」
彼は、両手に持った帛を開いて、高らかに掲げ上げた。
漢王は、言った。
「ここに、項籍が犯した罪、十か条がある。これより、天に代わりて漢王が、項籍の許すまじき大罪の全てを、天下万人に読んで示そうではないか!」
漢王が手にした、この一片の帛書。
それは、張良子房が、いつか使うようにと認(したた)めておいた、檄文の案であった。
漢王は、いま機転を利かせて、この文書を出して見せた。
今こそ、使うべき時であった。
漢王は、高らかに読み上げた。
― 罪の一。始め項羽と、倶(とも)に懐王の命を受く。曰く、先に関中に入り定めし者を、王となすと。項羽は約に負(そむ)きて、我を蜀漢の王となす。罪の、一。
罪の一つ目を読み終えて、漢軍から歓声が沸いた。
思えば、関中に先に入った者を関中王と為すことは、秦を攻める前に楚の懐王の御前で、諸侯と共に盟約したことであった。なのに、項王は関中を漢王に与えなかった。彼の軍師の亜父范増が、漢王の野望を憂えたからであった。覇王はこのとき、彼の忌む政治をして、漢王を抑え付けてしまった。そのことは、彼にとって痛烈な汚点であった。項王に、漢王を悪人呼ばわりする資格は、ない。
爆発する歓声は、いつまでも続くかのようであった。
漢王は、片手を一振りして、止めさせる仕草をした。
声は、漢王の手振りに応じて、ぴたりと止んだ。
「― よおし!」
漢王は、聴衆の心を掴んだことを、喜んだ。
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