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十五 善悪いずれに(2)

(カテゴリ:垓下の章

漢王城内では、陳平が、ひとまず大事が去って、大きくため息を付いた。

彼は、額の汗を拭って、声を漏らした。
「もう、十分だ。十分では、ないか、、、」
彼は、張良の方を向いて、言った。
「これ以上の両者の対峙は、やり過ぎです。あなたは、そう思いませんか?」
張良は、一言だけ返した。
「、、、確かに。」
陳平は、言った。
「まだ居着くのは、咎があるような気がして、なりません。なのに、大王はまだ退こうとしない、、、」
張良は、彼に答えなかった。
二人の対峙は、行き着くところまで行くより、他はない。
(それが、天命であろう―)
張良は、憂いを重ねる陳平をよそに、両雄の対峙を、じっと見守っていた。
城内の視線が集中する中で、漢王は、さながら舞台に上がった俳優顔負けであった。
彼は、人の注目を受けて、ますます乗りに乗った。
項王第二の罪を、名調子もて読み上げた。

― 罪の二。項羽、卿子冠軍を矯(いつわ)りて殺し、自ら尊しとなす。罪の、二。

聞いた項王は、激怒した。
「― それは、罪ではない!」
楚軍の事情を知る者ならば、卿子冠軍宋義こそが、秦と取引しようとした売国の姦者であったことを、知っているはずだ。項王は、彼の首を刎ねて、楚軍を掌握した。それは、国のためであった。項王は、いささかも悪いと思っていないし、責められるべき筋合など、ない。
だが、この場に必要なものは、事実ではなかった。
項王が楚を勝たせるために軍を乗っ取ったという全体の事実は忘れられて、項王が軍を乗っ取ったという事実の断片だけが、衆目の記憶に貼り付いた。当時の楚軍の事実などもはや知る者は少ないし、楚軍ではない漢の将兵たちにとって、知りたいとも思わない事実であった。
「そうだそうだ。項羽は始めっから、暴虐だ!」
見守る漢軍からは、軍鼓までが持ち出されて、やんやと打ち鳴らされた。漢王は、項王の抗議を、大衆の意見によって、封殺した。
漢王は、続けた。

― 罪の三。項羽、已(すで)に趙を救い、當(まさ)に還りて報ずべし。しかるに諸侯の兵を擅(ほしいまま)に劫(かす)めて、関に入る。罪の、三。

秦将章邯を破り、恐るべき武勇を諸侯に見せ付けた項王は、覇王となった。彼は、当然のごとく諸侯を見下し、自らの道を驀進することを、選び取った。
英雄である。なんで、凡人どもが彼を咎めることなど、できようか。
だが、凡人どもは、そんな覇王を、許さない。
「そうだ。項羽は、青二才のくせに、いきなり君主づらしやがった。項羽は、傲慢だ!」
「項羽、傲慢!」
「項羽、傲慢!」
読み終えた漢王に、声援は沸き起こる。
項王は、さらし者となった。
漢王は、いよいよ大衆の心を掴んで、にやりと笑い、次を読み上げる。

― 罪の四。懐王、秦に入りて暴掠することなきことを約すに、項羽、秦の宮室を焼き、始皇帝の冢(はか)を掘り、その財物を私収す。罪の、四。
― 罪の五。秦の降りし王子嬰を、彊(し)いて殺す。罪の、五。
― 罪の六。詐りて秦の子弟を、新安にて二十万阬(あな)にす。罪の、六。

漢軍は、罪の一つ一つが読み上げられるごとに興奮し、怒号は天を突くようになった。
この広武山に集う漢の兵卒たちは、ほとんどが旧秦の土地から、徴集されていた。漢軍の中身は、王と上位の将軍たちは楚など他国の出身者であったものの、それ以下の者たちは漢の本拠である関中・蜀漢の出身者たちによって、占められていた。楚人にこだわる項軍とは違って、漢軍はすでに古い国の境界線などは、捨て去った集団であった。
旧秦の子弟たちは、今も項王が関中で行なった暴虐を、忘れていない。
彼らが漢王のために戦うのは、ひとえに項王が憎いためであった。誰もが、近しい者の誰かを、項王によって殺されていた。新安での、二十余万人の虐殺。咸陽での、破壊と凌辱の数々。いや、それよりも、項王は秦人の誇りを傷付け、彼らを屈辱の淵に落とし込んだ。彼らは、それを忘れていない。今度は、項王。お前が屈辱を受けるべき、番なのだ―
「― 死項羽!」
「― 死項羽!」
「― 死項羽、、、!」
観衆は、声を合わせて、項王を責め立てた。
英雄は、善悪を越えるゆえに、英雄である。
項王は、前代未聞の武勲を積み重ねる陰で、人を戦慄させるような暴虐の数々を、行なって来た。
彼は、勝ち終わるべきであった。勝ち終われば、もう誰も英雄が陰で犯した暴虐など、声に出して非難できなくなる。古今東西の勝ち終わった英雄たちは、そうやって栄光だけを受け取り、その陰の暴虐を許されたのだ。
だが項王は、勝ち終われなかった。それが、惜しむべきかな。
今、彼を非難して押し寄せる声の山を、黙らせることができない。
非難を煽動する、目の前の彼の敵手の思いのままに、いたぶられている。
項王は、浴びせ掛けられる罵声を、黙って受け取っていた。
彼自身は、何も後悔などしていない。
ただ、黙って立っていた。
この大衆の指弾の渦に、反論することなど、もう無駄であった。彼は、そこまで愚かではない。ただ、その身に非難を受けるがままに、立っていた。
漢王は、その彼をさらに打ち据えるために、続いて彼の罪を読み上げた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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