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十六 夢は続くか(1)

(カテゴリ:垓下の章

つんざく怒声に支持されて、漢王は、項羽の罪状を、数え続けた。

― 罪の七。項羽、皆(ことごと)く諸将を善地に王となし、徒(いたずら)に故主を逐(お)い、臣下をして争い叛逆せしむ。罪の、七。
― 罪の八。項羽、義帝を彭城より出して逐い、自らこれに都し、韓王の地を奪い、梁楚に并(あわ)せ王となり、多くを自らに予(あた)う。罪の、八。
― 罪の九。項羽、人をして陰(ひそ)かに義帝を、江南にて弑せしむ。罪の、九。

語るに、落ちたものだ。
どうして、これらのことが、項王の罪と言えるだろうか。
義帝としてまつり上げられた懐王を排し、自らのために諸国に王を封建したことは、彼が覇王ゆえに、為したことであった。現に、漢王もまた征服した諸国の王を除き、項王よりもっとえげつない策略もて、自らを肥え太らせているではないか。
だが、政治の理非は、結局のところ、力の差であった。
この世界で互いに正義を言い合って、相争う者がある。どちらの側にも言い分があって、正統な根拠を論じ合えば、必ず終わることがない。天下を分けて争う者どもの間には、上位にあって裁く主体など、どこにも存在しないからであった。
ゆえに、力ある者が、力もて理非に決着を付ける。
たとえるならば、紙の帯を一ひねりして、両端をくっつけた様のようだ。どちらを表と言い張ることも、裏と言い張ることも、できない。表と裏は繋がり合い、裏かと思った面を辿って行けば、いつか表にひっくり返る。そのままでは、表と裏の判断を下すことなど、永久にできはしない。
政治とは、その帯を上から板で押し潰し、力で平たく延ばしてしまうことに似ている。板で押し潰してしまえば、表と裏はついに明らかとなるだろう。延ばされてしまった後の紙の帯には、釈然としない折り目ができる。それは、かすかに残った、この世界が下した判断への疑問である。しかし、そのような疑問など置き残して、世界の大勢は、とうとう一方を善となして称え、他方を悪と決め付けて非難することであろう。それを為すのは、勝ち残った力であった。
この檄を起草した張良は、そのような世界の理非の事情が、誰よりも分かっていた。それゆえに、あえて漢王に書き渡した。受け取った漢王もまた、それを良しとした。彼は、項王を指弾して、自らを正義とうそぶくことに、決して躊躇しなかった。彼は、政治家であった。
いま、正義は、読み上げた漢王の側にあった。
大衆は、漢王を圧倒的に支持していた。
項王は、一人でたたずんでいた。
もう、彼は何も言わず、異議も唱えなかった。
こうして大衆にいたぶられるのが、この英雄の、末路であったか。
彼ならば、一喝して黙らせることも、できたであろう。なのに、項王は、何も言うことがなかった。
漢王は、最後の一罪に、取り掛かった。
「罪の十。それ、人臣と為(な)りて、その主を弑し―」
漢王は、大いに声を低くして、ゆっくりと読み上げていった。
「已(すで)に降りしを、殺し―!」
城内の観衆は、漢王の一語一語を聞くために、静まり返った。
「政(まつりごと)に、不平を為し―!」
漢王の調子は、一句読み上げるごとに、高まっていった。彼の人心を掴む技は、天才的ですらあった。
「約を主(つかさど)りて、信たらず―!」
主を弑逆し、降兵を殺し、政治に不平をもたらし、盟約を守らない。最後の罪状は、項王批判の総まとめであった。
漢王は、最高潮となって、言った。
「天下、容れるところなし。大逆にして、無道、、、これが、罪の十だ!」
読み終わったとき、城内から、地を震わせるような怒号が、沸き起こった。
勝利は、漢王のものであった。
城内の将兵たちは、怒声を張り挙げ、軍鼓を狂ったように打ち鳴らして、興奮の渦となった。
やがて、諸方の声は一つにまとまり、大いなる声援と、化していった。
「漢―併ー天下!」
「漢―併ー天下!」
漢が、天下を併(あわ)せる。
将兵たちの心は、声とともに、一つとなった。
「漢―併ー天下!」
「漢―併ー天下!」
将兵たちは、今こそ、確信した。
漢が、勝利する。
暴虐の項王を討ち、漢王が天下を併せるのだ。
漢王は、声援に支持されて、項王に殺し文句を吐いた。
「分かったか!、、、その罪、万死に値する大悪人よ。能あって義なく、才に溺れて世を侮る。まさしく、お前は紂王の生まれ変わりだ。この漢王が、お前と一騎打ちする必要など、なんであろうか。獄吏に荒縄を渡して、縛り上げるのが罪人への正しき仕置。余が放つ追っ手に、捕われるがよいわ―!」
漢王は、項王を指差して、叱咤した。
背後の声援は、ますます高まりを見せた。
「漢―併ー天下!」
「漢―併ー天下!」
「漢―併ー天下!」
漢王は、答えない項王を、睨み続けた。
彼を見守る万人に、勝利の様をひけらかした。
「漢―併ー天下!」
「漢―併ー天下!」
背後の声は、さらに大きくなっていった。
漢王は、その声援に掻き消されて、もはや聞こえない声で、項王につぶやいた。
「項羽。お前が言うとおり、俺は悪人だ。だがな、人間としての悪人と、天下の悪人とは、違うのさ。お前は、それが分からない奴だ― だが、それはお前の、罪じゃない。」
彼は、項王に向けて、わずかに微笑んで見せた。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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